【企画特集】取り上げる話題やテーマにより企画し、複数回に分けて読み易くしました。今のところ国政や市政関連が中心ですが、今後はより領域を広げます。情報はinfo@press-isesaki.com
炎上後に灰燼と化した日航機の胴体(1月11日午後10時台のNHKニュースより)

炎上する日航機、しかし機内の秩序は守られていた
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年1月2日付)

1月2日に発生した羽田空港の日航機と海上保安庁航空機衝突で、ニューヨークタイムスが乗員乗客たちの冷静な対応をいち早く世界に伝えた。

【モトコ・リッチ東京支局長/上乃久子記者】
 火曜日、東京に着陸した日本航空516便の機内には煙が充満し、機内の混乱と喧噪の中に子供の声が響いた。「お願いです、早く降ろしてください!」客室乗務員が指示を叫び始め、乗客は恐怖に襲われていたが、子供は丁寧な日本語を使って訴えた。

 その後数分、炎が窓の外にちらつく中(これは最終的に日航機を飲み込むことになる)でも、秩序は保たれていた。乗務員たちは、最も安全と思われる3つの出口ドアから367人の乗客全員を避難させ、緊急用スライドから一人ずつ降ろし、乗客に大きな怪我はなかった。ほとんどの乗客は、携帯電話(この悲惨な光景を世界に伝えるため)などわずかな持ち物以外すべての荷物を置いてきた。

 羽田空港で多くの人が奇跡と呼んだこの生還にはさまざまな要因があった。訓練された12人の乗務員、12,000時間の飛行経験を持つベテランパイロット、先進的な航空機の設計と素材、しかし、緊急処置の間、機内のパニックが比較的なかったことが、おそらく大きかっただろう。「悲鳴は聞こえましたが、ほとんどの人は冷静で、席を立たずに座って待っていました」と、ガーディアン紙のビデオインタビューに応じた乗客のイワマ アルトさんは語った。「だからスムーズに脱出できたのだと思います」

 その評価にはストックホルムから来た17歳の乗客、アントン・デイベさんも同意し、「キャビンクルーはとてもプロフェッショナルだったが、彼らの目に恐怖が浮かんでいるのが見て取れました」と語った。それでも彼はこう付け加えた。「誰も我先にと走ることはありませんでした。皆が指示を待っていたのです」。滑走路で海上保安庁の航空機と衝突した日航機火災の翌日、西日本の地震救援に向かう海上保安庁の隊員5人が死亡した事故の原因について、手がかりが明らかになり始めた。

 管制塔と日航機、海上保安庁の機体との交信記録を見ると、日航機には着陸許可が下り、海上保安庁の機体には滑走路横の「ホールディング・ポイントまでタキシング(移動)する」よう指示されていたようだ。海上保安庁の航空機がなぜ滑走路に落ちたのか、その原因究明が進められている。運輸安全委員会の藤原琢也調査官は記者団に対し、同委員会は海上保安庁の航空機からボイスレコーダー、いわゆるブラックボックスを回収したが、日航機のレコーダーはまだ捜索中であると述べた。

 日航機が着陸する際のビデオ映像では、滑走路に突っ込む際に炎が立ち上っているように見え、無傷で脱出できた人がいたとは思えないような状況である。日本航空の広報担当者である沼畑康夫氏は水曜日の記者会見で、午後5時47分に飛行機が着陸してから、6時5分に最後の一人が飛行機を降りるまでの18分間、機体はエンジンから吹き出す炎に耐えていたと語った。この18分間には、飛行機が停止して避難用スライドが展開するまでの、滑走路を約3分の2マイル滑走する時間も含まれていたという。

 緊急着陸の際、90秒以内に客室から避難するよう乗務員は訓練され、旅客機もテストされているが、2年前のエアバスA350-900の技術仕様では、乗客が脱出するのにもう少し時間がかかる可能性が高いとはいう。オーストラリアのシドニーにあるニューサウスウェールズ大学で航空宇宙設計の上級講師を務めるソーニャ・A・ブラウン博士は、エンジン周りの防火壁、燃料タンク内の窒素ポンプ、座席や床の耐火素材などが、燃え盛る炎を抑える役割を果たした可能性が高いと述べた。

 「ある程度の耐火性があれば、初期段階での進行は遅くなります」とブラウン博士は電話インタビューで語った。「もし延焼を抑えるものがあれば、全員を安全に避難させることができる可能性が高まります」。エアバス社のスポークスマン、ショーン・リーは電子メールの中で、A350-900には4つの非常口と機体の両側から出られるスライドが装備されていると述べた。また、通路の両側には床照明があり、「機体の大部分は複合材料で構成されており、アルミニウムと同レベルの耐火性を備えている」と述べた。アルミニウムは一般的に高い防火性能を持つと考えられている。

 飛行機の構造もさることながら、乗務員による明確な指示と乗客のコンプライアンスが、安全な避難に役立っただろう、とブラウン博士は言う。「本当に、今回の日本航空の乗務員は非常によくやってくれました」とブラウン博士は語った。乗客が手荷物を取るために立ち止まったり、出口のスピードを落としたりしなかったことは、「本当に重要なことです」と彼女は付け加えた。

 北海道北部から飛行機で帰国していた東京郊外の会社役員、イマイ ヤスヒトさん(63)は通信社時事通信に対し、飛行機から持ち出したのはスマートフォンだけだったと語った。「ほとんどの人がジャケットを脱いでいたので、寒さに震えていました」と彼は語った。泣き叫ぶ子供たちや大声を出す人がいたにもかかわらず、「ほとんどパニックになることなく避難することができました」

 日本航空の堤正之氏は、緊急時の乗務員の行動において最も重要となるのは、「パニックコントロール」と「どの出口を使えば安全かの判断」だと述べた。元客室乗務員が、緊急事態に備えるために乗務員が受ける厳しい訓練やトレーニングについて説明している。元客室乗務員で、乗務員志望者を指導するヨーコ・チャンさんは、インスタグラムのメッセージに「避難手順の訓練では、煙や火災のシミュレーションを繰り返し行い、現実にそのような状況が発生したときに精神的な準備ができるようにしました」と書いている。

 JALに勤務していなかったチャンさんは、航空会社は客室乗務員に6ヶ月ごとに避難試験に合格することを義務付けていると付け加えた。日本航空の沼畑氏によると、この避難で15人が負傷したが、重傷者はいなかったという。東京の航空アナリスト、杉浦一機氏は、今回の結果は注目に値すると述べた。

 「通常の緊急事態では、かなり多くの人が負傷します」と50年以上航空事故を研究してきた杉浦氏はインタビューで語った。 「緊急用スライドは風で動き、乗客が次々と出口から転落するため、地面に体を打ち付け怪我をする人も少なくありません」。管制塔と航空機の1機との間の連絡ミスが衝突を引き起こした可能性があるかどうかについて、杉浦氏は「何が起こったのかを推測するのは難しい」と述べた。 同氏は、海上保安庁のパイロットが航空管制の指示を「誤解した可能性がある」と付け加えた。

 明らかなことは、「離陸準備中の航空機と別の航空機が同時に同じ滑走路に着陸するべきではなかった」ということだ、とブラウン博士は述べた。彼女は、海上保安庁のプロペラ機は旅客機よりもはるかに小さかったことから、2機が衝突した際、海上保安庁の航空機(ボンバルディア・カナダDHC-8-315)の乗組員は「実際の衝撃自体で」死亡した可能性が高いと述べた。元日本航空パイロットの杉江弘氏は、2機の飛行機が同じ滑走路に入る滑走路侵入があまりにも頻繁に起きていると語った。「ヒューマンエラーは大きな空港でも起こりうる」と彼は言う。

 1991年にロサンゼルスで起きたボーイング機と小型ターボプロップ機の衝突事故以降、パイロットは管制塔からの指示をすべて口頭で繰り返すことが義務づけられている、と杉江氏は語った。日本航空のスポークスマンである沼畑氏は、516便の機長は口頭で着陸許可を確認し、管制塔に繰り返したと述べた。海上保安庁の乗組員も「ホールディング・ポイント」への移動指示を確認した。

【翻訳】星大吾(ほしだいご)・伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
10月30日の硫黄島沖噴火による新島形成図(東京大学地震研究所ホームページより)

海底火山によって日本に新しい島が誕生中―過程を目撃できる貴重な機会
ニューヨークタイムス アジア太平洋欄記事(2023年11月7日付)

 現在も続く火山の噴火によって、硫黄島から1〜2キロも離れていない海上に小さな陸地が生まれた。これは火山にどのような働きがあるかについて学ぶ、またとない事例研究となる。
(ヒサオ ウエノ,マイクアイヴス)

 3週間前、硫黄島からの眺めは見渡す限り大海原であった。今、すぐ沖合に小さな新しい島があり、成長するにつれて煙を吹き上げている。これは火山島がどのように誕生するのかを目撃する貴重な機会となっている。

 この新しい島は、10月21日に噴火を開始した無名の海底火山の産物であり、第二次世界大戦中に米軍と日本軍が激戦を繰り広げた日本の島、硫黄島から1〜2キロも離れていない。

 東京から離れること数百キロ、太平洋に浮かぶ硫黄島では、噴火が始まって以来、負傷者や被害は報告されていない。この噴火では、珍しい地質学的現象をリアルタイムで見ることができる。

 昨年も同じ場所で同様の噴火が起きているが、今回は噴火地点が水面より上にある、と気象庁の臼井雄二・火山活動主任分析官は言う。

 アメリカ合衆国地質調査所によれば、世界中には潜在的活火山である陸上火山が約1,350あるという。科学者たちは、これまでにさらに数千の「海底」活火山を発見しており、より多くの活火山、あるいは陸上の活火山1つに対して数百ものの活火山が、波の下に潜んでいる可能性があると考えている。

 地質学的な歴史の点からいえば、ハワイ諸島を含む主要な島々は海底火山の噴火によって形成された。しかし、ほとんどの場合、これらの噴火を我々は実際に目撃することはできない。

 「ハワイを形成した噴火は、すべて我々の時代より前のものです」ニュージーランドのオタゴ大学の地質学教授で、海底火山の噴火を研究しているジェームズ・ホワイト氏は言う。「たとえポリネシアのカヌーに乗ってその上で待っていたとしても、海底火山の噴火が水面まで上がってこない限り、噴火を見ることはできなかったでしょう」

 気象庁の臼井氏によれば、硫黄島沖の現在の噴火は数週間前から激しさを増し、先週の金曜日と土曜日にピークを迎えた。東京大学地震研究所の報告によると、10月30日現在、新しい島の直径は約100メートル(328フィート)である。

 日本の同じ地域にある西之島火山の近くでも、2013年に同じような形で小さな島が形成された。その噴火は10年間続いたが、硫黄島付近の噴火は通常1カ月しか続かないと、地震研究所の中田節也名誉教授は言う。

 「噴火がいつ収まるかは不明です。噴火が続くとすれば、島はより高く、より大きくなる可能性があります「」

 ホワイト教授によれば、今回の噴火は、海中約500メートルを貫いてそびえ、山頂が硫黄島として海上に出ているとしている、より大きな「親」火山の側面から始まったようだという。

 ホワイト教授によれば、噴火は持続的な噴火柱を作るのではなく、大きな灰色の粒子が砲弾のような弾道弧を描きながら小さな粒子を吸い込む、指のような噴流で個別の爆発を起こしているという。噴火には赤熱したマグマも含まれており、その混合物が噴火の複雑さを物語っている、と教授は加えた。

 「火山学者でさえ、噴火がどのように起こっているのかを正確に言うのは難しいのです」と教授は言う。

 多くのアメリカ人が硫黄島を知っているのは、この島は連島の一部であり、1945年初頭、第二次世界大戦の死闘の舞台となったからである。

 ピューリッツァー賞を受賞した写真には米国海兵隊によると、米国人6人が写っているという。1945 年 2 月、島の上で星条旗を掲げた海兵隊員の姿は、アメリカ国民にとってこの戦争の忘れがたいイメージとなった。

 西之島火山から約130キロ、硫黄島から北に約2倍離れた父島に住む高橋由佳さんは、西之島噴火の硫黄や煙の臭いを時々感じたことがあったという。

 高橋さん(31歳)が6月に父島から出航した一泊クルーズで硫黄島を見たとき、海に囲まれており、噴火の兆候は見えず、匂いもしなかった。彼女が見たのは、自衛隊が運営する施設と、浜辺に浮かぶわずかな廃船だけだった。

 「新しい島が永久にそこにできるのか、それともまた海の下に沈んでしまうのか、非常に興味があります」彼女は現在の噴火についてこう語った。

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
ムーミンの原作者トーベ・ヤンソン(ムーミンについてのブログより)

ムーミンたちの平和な暮らし〜作者トーベ・ヤンソンの生活〜
地元翻訳家 星大吾翻訳 NYT芸術蘭記事/ニーナ・シーガル(2023 年10月4日付)

 VILLAGE/VANGUARDが全国で開催している期限限定ショップ「ムーミン谷の不思議な住民たち」が2月、スマーク伊勢崎でも開かれ賑わった。今も絶大な人気を誇る、そんなムーミンの作者トーベ・ヤンソンの生涯と生活を知る記事を紹介します。
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 スカンジナビアの作家・芸術家トーベ・ヤンソンが、最初の「ムーミン」の物語の草稿を書いていたのは、ヨーロッパが第二次世界大戦の危機に瀕していた頃であった。

 半ばで書きかけとなったその草稿は戦後まで忘れ去られていたが、1945年に『小さなトロールと大きな洪水』として出版され、後にフィンランド文学の古典となる9冊のムーミンシリーズの最初の作品となった。

 1954年にヤンソンがロンドンの新聞『イブニング・ニュース』で可愛いリトル・ミイ、天真爛漫なスノークのおじょうさん、思慮深いスナフキンといったムーミンのキャラクターを漫画にすると、彼らは世界的に有名になった。1990年代には、日本とオランダの共同制作によるムーミンのテレビアニメ番組と長編映画が制作され、新たなファンを増やした。

 今日、ムーミンはおそらくフィンランドで最も愛されている文化的輸出品であり、スウェーデン語で書かれたヤンソンの本は50カ国語以上に翻訳されている。

 しかし、フィンランドとスウェーデンの同性愛者のアーティスト、熱心な平和主義者、パートナーと年の半分を島で暮らしていたという作者自身についてはあまり知られていない。

 パリのエスパス・モン・ルイで9月29日に始まった展覧会「トーベ・ヤンソンの家」は、彼女の全作品と、その根底にあるユートピア思想により関心を集めることを目的としている。

 ムーミンのイラストや漫画に加え、ヤンソンの絵画やスケッチ、衣装やセットのデザインも展示されており、その多くは平和、寛容、調和への願いをユーモラスに表現している。

 また、ヤンソンの青春時代や、生涯のパートナーであったトゥーリッキ・ピエティラなどの家族関係、芸術を創作した場所などについても紹介している。

 パリのアート集団「コミュニティ」のメンバーであるトゥッカ・ローリラは、「彼女の作品に新たな視点をもたらし、現代的な視点で彼女の作品を探求する」ために、ヤンソンの遺族の協力のもと展覧会を企画した。

 ヤンソンの生涯の伝記的要素を理解すれば、「ムーミンの登場人物の多くが、彼女の周囲の人々や彼女の人生にインスピレーションを受けたものであることがわかります。どのキャラクターが誰を表しているのかを知れば、トーベの人生を読み解くことができるのです」

 シングーミーとボブ、秘密の言葉を話すドレスを着た二人の切っても切れない小さな生き物は、例えばトーベと彼女の初恋の人、ヴィヴィカ・バンドラーがモデルである。楽観的で問題解決型のトゥー・ティッキーは、ヤンソンの長年のパートナーであるピエティラに直接インスピレーションを受けた、とローリラは言う。フィンランドでは1970年代までこのような同性愛は犯罪とされていたが、ムーミンの世界ではそのような関係も見られる。

 本の中では、自然の中で暮らし、珍しい生き物と友情を育み、困難から学び、互いに助け合う方法を見つけることにも焦点が当てられている。

 ヤンソンの伝記を書いたストックホルム大学のボエル・ウェスティン教授(児童文学)は、ヤンソンは平和主義についての自分の考えを表現するために作品を書いたと述べている。

 「戦時中、彼女は日記に幸せな社会、もうひとつの世界を築きたいと書いていた。ムーミンの世界は、その夢のある種の実現、あるいは疑似体験として見ることができる」

 ヤンソン(2001年没)は、1914年にフィンランドのヘルシンキで生まれた。スウェーデン人の母、イラストレーター、シグネ・ハンマーシュテン・ヤンソンと、フィンランド系スウェーデン人の父、彫刻家ヴィクトール・ヤンソンは、美術を学んでいるときにパリで出会った。

 トーベはペンが握れるようになるとすぐに絵を描き始め、ストックホルムとパリで美術を学んだ。15歳のとき、スウェーデン語の政治風刺雑誌『Garm』に初めてイラストを描き、当時台頭していたファシストや共産主義運動を公然と批判した。

 彼女は1953年までこの雑誌で働き、ヒトラーやスターリンの風刺画など約100点の表紙イラストを描いた。この展覧会のもう一人の共同企画者であるシニ・リンネ=カントは、「これは間違いなく危険なことでした」と言う。第二次世界大戦中、フィンランドはドイツ帝国と同盟を結んでいたからだ。

 1944年以降、ヤンソンは1年の半分をヘルシンキのアトリエで過ごし、春が来ると、残りの半年を生涯のパートナーであるピエティラとフィンランド群島のクロフハルン島と呼ばれる小さな島で暮らした。島には一軒しか家がなく(彼女たちの家だ)、電気も水道もなく彼女たちはすべての物資をボートで運んだ。

 「彼女たちの島の小さな家には一部屋しかありませんでした。」トーベの姪で、この島を訪れて育ったソフィア・ヤンソンは言う。「家の隣にはテントもあり、彼女たちは風の音や海の音を聞くのが好きだったので、よくそこで寝ていました」

 島に住む理由はもうひとつあった。それは、フィンランドでは同性愛者であることを理由に逮捕されたり、法的処罰を受けたりする可能性があったが、クロフハルン島では堂々と一緒に暮らすことができたからだ。年をとり、ヤンソンが海を怖がるようになるまで、彼女らは30年間そこで過ごした。

 しかし、完全に孤立していたわけではなかったとソフィアは言う。夫妻は定期的に家族や友人を迎えていた。ムーミンたちが血縁者も見知らぬ人ももてなすのと同じように。

 「お客さんが来ると、お客さんは家で寝て、トーベとトゥーリッキはテントで寝ました」とソフィアは言う。「ムーミンの世界では、ドアはいつも開いているのです」

 この安全な家を作るという考えは、ヤンソンの作品の中心的なものだったとウェスティン教授は言う。ヤンソンは著作の中で、「家は安心できる場所であり、楽しく過ごせる場所である」と言っている。「しかし同時に、家は時に災害に脅かされる、だから、私たちは家を守るために戦わなければならない」

 ムーミンの登場人物たちの状況は、ヤンソンの現実を反映している、とソフィアは言う。ムーミントロールとムーミンママが、いなくなったムーミンパパを探しに行く最初の本からそうだった。

 「彼女の知り合いはみんな誰かを亡くしていました。これは決して大げさに言っているのではありません」とソフィアは言う。「多くの男性が戦線で亡くなり、多くの父親が行方不明になっていました。誰もが転々とし、難民という問題を多くの者が考えていました」

 リンネ=カントは、ヤンソンの作品のテーマの多く、特に自然災害、気候のもたらす災害、難民の苦境は、現代の読者の共感を得ていると語った。

 「ヤンソンは、私たちが今経験していることを描いているのです。彼女がこういった作品を書いていたのは80年前なのですから驚くほかありません」
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
福島第一原発/11日に処理水放出を伝えるテレビ映像(日本テレビnews every)を撮影

中国で拡散される情報により福島原発処理水放出への怒りが助長される
地元プロが翻訳 NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月30日付)
 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
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 中国南岸の広東省では、ある女性が箱詰めされた日本ブランドのエアコンの写真を投稿し、抗議のために返却する予定だと述べた。中国南西部では、日本式居酒屋のオーナーが、アニメのポスターを破り、瓶を叩き割る動画を投稿し、中華ビストロとして営業を再開するつもりだと述べた。

 このようなソーシャルメディアへの投稿の多くには、「放射能汚染水」という言葉が使われている。これは、中国政府と国営メディアが、日本が廃炉とした福島第一原子力発電所の放射能処理水を海に放出したことを指して使っている言葉だ。

 先週、日本が100万トンを超える処理水の第一回目の排水を開始したが、それ以前から中国は排水の安全性に関する誤情報を広める組織的なキャンペーンを展開し、何百万人もの中国人の怒りと不安を煽っていた。

 原子力発電所が大地震と津波で破壊されてから12年、処理水の放出は、中国をアジアのライバル国との外交における騒乱を煽るという古典的なやり方に逆行させた。2012年には、日中両国が自国領と主張する島に日本の活動家が上陸したことで、中国のデモ隊(警察が同行していたと見られる)が寿司レストランを襲撃する事件が起きている。

 しかし今回、中国にはより広い意図があるのかもしれない。世界秩序が大きく変化し、中国とアメリカが世界を「自分の味方かそうでないか」という枠組みで分割する傾向が強まっている中、中国は日本の信頼性に疑念を植え付け、同盟国を不正行為の共謀者として印象付けようとしていると専門家は指摘する。

 カーネギー国際平和財団の核政策プログラム・シニアフェローであるトン・チャオ氏は、「米国、欧州連合(EU)、オーストラリアが日本の放水を支持している中、中国は、日本とその国際的パートナーが『地政学的な利害に振り回され、支配された結果、基本的な倫理基準や国際規範を曲げ、科学を無視している』というシナリオを作りたいのだ」と語る。

 チャオ氏はさらに「私が懸念しているのは、このような認識と情報の乖離が広がることで、中国が既存の国際的な政治や制度、秩序に明確に異議を唱えることが正当化されるのではないかということだ」と続けた。

 国際原子力機関(IAEA)のタスクフォースに招聘された中国の専門家を含む科学者たちは、日本の放水が人体や環境に与える影響は極めて小さいと述べている。

 しかし、日本の処理水放出計画をめぐって、中国政府とその関連メディアは数カ月にわたって非難を続け、先週、中国外務省は日本の「放射能汚染水」放出を非難し、日本の水産物の輸入を停止した。

 福島原発から240km以上離れた東京都の役所には、中国の国際番号から何千もの電話がかかってきており、「バカヤロー!」「なんで汚染水を流すんだ!」などカタコトの日本語で嫌がらせのメッセージを浴びせられている。

 政府や企業の誤情報対策を支援するテクノロジー系企業のLogically社によると、中国の国営メディアや政府関係者、親中派のインフルエンサーによる福島原発に関するソーシャルメディアへの投稿は、今年に入ってから15倍に増えたという。

 これらの投稿は、必ずしも明白な虚偽の情報を流布しているわけではないが、日本が放射性物質をほぼすべて除去してから排水を行っているという事実など重要な情報が抜け落ちている。また、中国の原子力発電所が、福島原発の排水よりもはるかに高レベルの放射性物質を含む排水を放流していることには触れていない。

 国営の中国中央テレビ局と中国グローバルテレビ局は、フェイスブックやインスタグラムで、英語、ドイツ語、クメール語など複数の国や言語で、放水を非難する有料広告を掲載している。

 このような世界的な働きかけは、中国が新たな冷戦ともいえる状況で、より多くの国々を味方に引き入れようとしていることを示唆している。Logically社の中国専門家であるハムシニ・ハリハラン氏は、「重要なのは、日本からの海産物が安全かどうかではない」と語る。「これは、現在の世界秩序に欠陥があると主張する中国の活動の一環である」

 中国の情報源では、日本政府と福島原発を運営する東京電力が、強力なろ過システムでどれだけの水が処理されたかを報告しなかった初期の失敗が指摘されている。

 電力会社のウェブサイトによると、敷地内の貯蔵タンクにある約130万トンの水のうち、30%のみが完全に処理され、トリチウム(水素の同位体であり、専門家は人体へのリスクは低いとしている)だけが残留という。東電は、完全に処理されるまではいかなる水も放出しないと発表している。

 日本の複数の政府機関と東電が行った検査では、先週から放出された水に含まれるトリチウムの量はごく微量で、世界保健機関(WHO)が定めた基準値をはるかに下回っていた。中国や韓国の原子力発電所から放出されている水には、より多くのトリチウムが含まれている。

 国際原子力機関(IAEA)や多くの国の専門家を含む監視ネットワークにより、「日本政府に対する国際的な圧力は非常に高い」と、福島原発事故の環境的・社会的影響を研究しているカリフォルニア大学バークレー校のカイ・ベッター教授(原子力工学)は言う。

 岸田文雄首相の官房長官である松野博一氏は月曜日、日本は「中国から発表された事実と異なる内容を含む情報に対して、何度も反論してきた」と述べた。

 日本の外務省では、ソーシャルメディア・プラットフォーム「X」(旧ツイッター)上で「#LetTheScienceTalk」というハッシュタグを使用している。日本にとっての課題のひとつは、一般市民にとって科学が理解しづらく、このような出来事に対して人々がしばしば感情的に反応することである。

 「よく知らないものに対して、人々が心配したり恐れたりするのは理解できる」 東京の青山学院大学教授で、原子核物理学の社会学と歴史を研究している岸田一隆氏は言う。「自分の目で見たわけでも、確認したわけでもないのに、専門家の説明を信じるしかないのだから」

 科学的な理解の欠如は、特に厳しく管理されている中国の情報チャンネルにおいては、誤情報につながりやすい。Logically社のリサーチ責任者カイル・ウォルター氏は、「何十年にもわたって住民が食の安全に対する不安に直面してきた中国では、当局はその脆弱性を利用して大衆を操り、恐怖心を煽ることができる」と語った。

 それでも、日本は常に自助努力を怠ってきたという批判もある。それらの意見では、東電が計画された排水の30年間で放射性物質の大部分を除去するという誓約を守れるかどうか疑問視されている。また、日本が排水を放出する決定を発表する前に、周辺国と協議すべきだったと言う。

 「中国がリスクを誇張しているのは、日本がその機会を与えたからである」と、震災以来福島の放射線レベルを追跡している環境モニタリング団体『セーフキャスト』の主任研究員、アズビー・ブラウン氏は言う。早くから「国際的な協議が欠けていた」ため、「中国と韓国が正当な疑問を呈することを予期できたはずだ」と彼は言う。

 中国では、政府のプロパガンダに対する反発も散見される。科学ブロガーのリウ・スー氏は、日本の植民地時代の虐待に関連する「ナショナリストのシナリオ」について書き、その中で日本は「永遠に真の許しを否定され、日本に対する批判はすべて合理的で公正なものとみなされる」とした。彼は、あるユーザーから "不適切な言論 "として上海当局に通報された後、ソーシャルメディアからこの投稿を削除した。

 韓国政府関係者は、ソーシャルメディア上で出回っている荒唐無稽な主張のいくつかを否定しようとしている。

 先週、福島原発の近くで変色した水が写っている写真が韓国で広く拡散されたが、政府高官のパク・クヨン氏はこれをフェイクニュースだとし、その写真は放電が始まる8分前に撮影されたものだと指摘した。
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされる古関裕而の像(出身地の福島駅前)

色あせることのない日本の夏の風物詩 古関裕而「栄冠は君に輝く」
地元プロが翻訳  NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月4日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
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 75年前、高校野球のために作られた古関裕而の「栄冠は君に輝く」は、思い出を呼び覚まし、新たな感動を与えている。 ブラッド・レフトン

 トロント・ブルージェイズの先発投手として活躍する菊池雄星は、実はカラオケ名人でもあり、十八番はかつて所属していた西武ライオンズの応援歌だ。先発登板の合間のオフの日に、彼は「栄冠は君に輝く」の歌詞を知っているかどうか尋ねられたが、どうやらこれは愚問だったようだ。

 ミネソタのビジター側ダッグアウトにユニフォーム姿で立った彼は、満面の笑みを浮かべ、日本語で歌った。

 春にとっての桜がそうであるように、「栄冠は君に輝く」は日本の夏の風物詩である。1948年に古関裕而はこの曲を全国高校野球選手権大会のために作曲した。そして今度の日曜日、過去75年間と同じように、49都道府県の優勝校の選手たちが西宮の甲子園球場に入場し、膝を高く上げ古関の歌に合わせて行進する。

 「夏の風物詩です」と菊池は言った。「そう、まさに、夏の野球の代表曲。幸運にも甲子園球場で全国大会に進出できた球児のためだけでなく、全国大会進出を目指す県予選の間中も流れ、最高のプレーをするための闘志を高めています」

 菊池は2年生と3年生の時に甲子園球場で行進した。ミネソタ・ツインズの先発投手、前田健太は2年生で行進している。

 「頭に残る曲です」と前田は言う。「この曲を聞くと、日本人なら誰もが夏の甲子園を思い浮かべると思います。僕にとっては、高校時代を思い出すし、あの夏の大会に出場したことを思い出します」

 小関は1909年、東京から300km北にある小さな町、福島に生まれた。1930年、アメリカのコロムビア・レコードのライセンシーであった日本コロムビアに作曲家として入社。スポーツにはほとんど興味がなかったにもかかわらず、マーチングの要素に惹かれてチームの応援歌を手掛けた。

 おそらく彼は、自分が日本で最も人気のあるスポーツイベントに関わる仕事をすることになるとは思いもしなかっただろう。

 1915年に全国中学校優勝野球大会として創設されたこの大会は、第二次世界大戦中の4年間、中断されていたが、1946年に再開された。連合国軍の占領下、日本は多くの社会的、経済的改革を行ったが、その中でも教育制度の見直しが行われ、高等学校と呼ばれる3年制のカリキュラムが新設された。

 毎年夏の甲子園で開催されていた野球の祭典は、1948年の第30回大会から「全国高等学校野球選手権大会」に正式名称が変更された。この変更を記念して、主催者はテーマソングの全国公募を行った。そして当時38歳だった小関の曲が選ばれた。

 小関は自伝の中で、終戦からインスピレーションを得たと書いている。大会の継続は平和の継続を意味する。打球の心地よい音と若者の高揚感は、日常となっていた空襲警報のサイレンの鳴り響く緊張感に取って代わる。

 彼は高揚感のある、前向きな曲を求めていた。そのプロセスをこう説明した。

 「インスピレーションを得るために、私は誰もいない甲子園に行き、マウンドの上に立った。熾烈な戦いの中に身を置くとはどんな感じだろうと想像しているうちに、曲のメロディーが自然と頭に浮かんできた。あのマウンドに立つことが、それをつかむための唯一の方法だった」

 小関の甲子園球場への影響力は、この大会だけにとどまらない。彼は、同球場のホームチームである阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も作曲している。

 小関は、1936年にプロリーグが結成された際にこの曲の作曲を依頼された。原題は「大阪タイガースの歌」。この行進曲は、日本プロ野球で最も長く続いている球団応援歌として愛され、黒と金のピンストライプのユニフォームと同じくらいタイガースの代名詞となっている。

 この曲は、ハリー・ケリー(米の野球実況アナウンサー)が歌った「私を野球に連れてって」のようにファンによる熱狂的な人気を得ている。ケリーが亡くなって25年経った今でも、リグレー・フィールドのファンは7回表に有名人が「私を野球に連れてって」を歌うのを待ち望んでいる。

 数多のミュージシャンや有名人が「六甲おろし」をレコーディングしているが、おそらく最も有名なのは阪神のある選手のものだろう。元メッツの内野手、トム・オマリーは阪神に4年間在籍し、毎シーズン3割を超える打率を残した。

 彼は1994年に「六甲おろし」を日本語と英語でレコーディングした。ケリーに倣い、愛すべき音痴っぷりを大衆に曝したのだ。オリジナル盤は10万枚以上を売り上げ、オマリーの日本での活躍が終わってから18年後の2014年にリマスターされたデジタル版がリリースされた。

 小関は先月、プロ・アマ両野球界への音楽的貢献が認められ、死後であるが、日本野球殿堂入りを果たした。その20年前、彼は日本のホームラン王でライバルの読売ジャイアンツでプレーした王貞治から、驚きの賛辞を受けた。2003年の日本シリーズ前、当時福岡ダイエーホークスの監督だった王は、対戦相手として再び聴かされることになるこの曲について尋ねられた。

 「六甲おろしはリズムもいいし、好感の持てる曲です」と王監督は記者団に語った。「対戦相手の応援歌でありながら、実はみんなに勇気を与えてくれる。小関さんが作曲した応援歌は、スポーツをするすべての人を元気にしてくれる」。
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
アイヌのアイデンティティのひとつだった北海道のサケの川漁

法制化の中、アイヌ民族のアイデンティティを取り戻す戦い
地元プロが翻訳 NYT アジア太平洋欄記事(2023年7月2日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
 アイヌ先住民族を代表する団体が、100年以上前に失われたアイヌ民族が北海道の川でサケを自由に漁獲する権利を取り戻すため起こした訴訟。様々な関係者の思いはー。
モトコ リッチ、ヒカリ ヒダ
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 ある日の午後、差間正樹氏は霧の中から日本最北の地、北海道・十勝川の灰色の水面を見つめた。彼のルーツであるアイヌ民族は、かつてここから銛や網を使って神からの贈り物とされるサケを獲っていた。

 日本の法律では、アイヌの料理や交易、精神文化に欠かせないサケの川漁は、100年以上前から禁止されている。72歳の差間氏は、今こそアイヌの人々にとっての当然の権利を取り戻し、衰退したアイヌのアイデンティティの最後の名残のひとつを取り戻す時だと語った。

 「かつての我々の文化では、サケはコミュニティーの中で誰もが楽しめるものでした。サケは我々のためにあり、我々はこの魚を獲る権利を取り戻ししたいのです。」

 国会でアイヌを先住民族と認める法律が可決されてから4年が経ち、差間氏はサケ漁の権利を取り戻すために国と県を提訴する団体を率いている。

 日本の同化政策によって、何世紀にもわたり、アイヌは土地を奪われ、狩猟や漁業をやめ、農業やその他の単純労働に従事させられ、自分たちの言語を使うことのできない日本語学校に押し込められた。

 明治時代(1868〜1912)、政府が川での漁を全面的に禁止したのは、太平洋に産卵に向かうサケの資源を保護するためだった。

 アイヌの歴史と漁業権について著書がある札幌学院大学の山田伸一教授(人間科学)は、「この動きは、海からサケを獲る日本の漁師に有利になるよう、アイヌを生業としての漁業から遠ざけようとする政府の政策と一致していた」と語る。

 アイヌの擁護者たちは、日本の法律は、伝統的な所有権や慣習によって主張される土地や資源を利用する権利を規定する「先住民族の権利に関する国連宣言」を遵守していないと言う。日本は2007年、この宣言(但し強制力はない)に同意した。

 「日本は法の支配に従うというが、先住民族の権利という点では非常に遅れている」と、北海道東部にある私立博物館の館長であり、日本の国会議員を務めた唯一のアイヌ人の子孫である萱野志朗氏は言う。「アイヌの人々は、伝統的なアイヌのライフスタイルに戻るという選択肢を持つべきだ。」

 アイヌの人数は著しく減少しており、2017年に実施された最後の公式調査では、総人口約520万人の北海道でアイヌと確認されたのは13,118人だけだった。ユネスコはアイヌ語を 「危機的消滅危機言語 」に指定している。

 日本政府は今年、アイヌを先住民族として認定した2019年の法律に基づき、アイヌの文化活動、観光、産業を支援するために約56億円を支出する予定だ。この新法は、10年前の旧決議に基づくものである。

 2020年、政府は県庁所在地である札幌市の南、白老にアイヌ民族博物館を開館し、舞踊、木彫り、弓矢、刺繍などのアイヌの伝統を紹介している。メインの展示室にある歴史年表は、日本の侵略者がアイヌを「抑圧」し、人口の一部を絶滅させる病気をもたらし、日本の習慣を強制し、「しばしば耕作不可能な」農地をアイヌに与えたことを認めている。

 新法も国立アイヌ民族博物館・公園(ウポポイ)の存在も、日本を単一民族の国だと主張する日本の政治家たちに何世紀も無視されてきたアイヌに力を与えるには足りないと言う批判もある。

 政府はアイヌの工芸品、音楽、舞踊を重視しているが、アイヌの権利の専門家であり、著名なアイヌ指導者の姪でもある鵜沢加奈子氏は「私たちは政治的権利を持つべきです。」と言う。

 北海道の先住民族の存在を教科書やカリキュラムでほとんど認めていない教育制度の中で、アイヌの一部の人々は、切り離された博物館以上のものを望んでいるという。

 アイヌ民族博物館の副館長である村木美幸氏(63歳)は、子どもの頃、家族がアイヌ民族であることを家庭で話したことはなく、クラスメートは自分や他のアイヌの子どもたちを犬に例えたという。

 「社会全体では、私たちが学ぶのは日本文化だけです。それは私たちの数が少ないからだと言います。でもそれは、私たちが自由に生きられなかったせいでもあるのです。」と彼女は言う。

 差間氏にとって、それはアイヌがいつでも川からサケを獲れるようになって初めて可能になることなのだ。

 県知事は毎年、儀式のために限られた数のサケを捕ることをアイヌに認めている。差間氏によれば、仮にラポロ・アイヌ・ネイションが勝訴したとしても、毎年定期的に許可されている100匹や200匹以上のサケを捕獲することはないという。

 「魚の数ではなく、私たちの権利の問題なのです」と、地元で漁網を製造する会社を共同経営し、海の商業漁業免許を持つ差間氏は語った。

 この裁判は早ければ今秋にも法廷で審理される可能性がある。日本政府は裁判所に提出した資料の中で、川漁の禁止は北海道のすべての住民を対象としており、アイヌは年に一度の儀式を除いて特別な権利を与えられていないと述べている。

 北海道庁アイヌ政策課の遠藤通昭広報官は、係争中の訴訟を理由にコメントを避けた。内閣官房のアイヌ政策推進会議と国の水産庁もコメントを避けている。

 北海道のアイヌ・コミュニティ内でも、アイヌ文化を守るための最善の方法をめぐっては意見が分かれている。

 北海道アイヌ協会の貝澤和明事務局長は、土地や森林へのアクセス権とともに漁業権についても政府関係者に働きかけたいと述べた。

 ウポポイ博物館でアイヌ文化に携わる人々は、法廷闘争よりも自分たちの文化的ルーツを探求していると語った。

 午後、伝統的な木製のカヌーを実演している博物館職員の牟田達明氏(34)は、「訴訟はとても重要ですが、同時に私たちは現代の日本人です。法律に従うべきではないでしょうか?」と語った。

 ラポロ・アイヌ・ネイションのメンバー12人のうち数人は(ほとんど全員が差間氏の下で働いている)、訴訟の過程で自分たちのルーツを発見した。

 子供の頃、長根弘喜氏(38)はアイヌはすでに絶滅したと思っていた。まさか自分がアイヌであるとは思ってもみなかった。

 ある日の午後、長根氏は地元の公民館のテーブルで、他の数人のメンバーとともに、藍色の布に黄色い糸を針で刺す作業に没頭していた。教師の廣川和子(64)は、長い間ロープを編んだり大きな網を張ったりして硬くなった太い指にもかかわらず、伝統的な刺繍が上手だと彼をからかった。

 差間氏にとって、訴訟を起こしアイヌの伝統を守ることは、遺産を残すことでもある。他の多くのアイヌの人たちと同じように、彼は子供の頃、自分が先住民族の一員であることをなんとなく感じてはいたが、はっきりと自覚したことはなかった。

 しかし40代の頃、アイヌの血を引いていることを嘲笑され、バーで乱闘騒ぎを起こした。その時、彼は自分の人生を文化と政治活動に捧げることを決意した。

 「刺繍や木彫りに誰も興味を示さないときでも、一人で頑張りました」と涙を流しながら語った。「民族差別はどこに行ってもなくならない。どこにも隠れることはできないのです。」
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。伊勢崎第二中、足利学園(現白鳳大学足利高校)、新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowers」における空間と時間 人文地理学的解説」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
欧米の「MeTo運動」が、まだ定着していない日本の性的力関係

セクハラを主張した大学院生、相手教授の妻からの損害賠償支払うことに
地元プロが翻訳 ニューヨークタイムズ/アジア太平洋欄記事(2023年5月29日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説や記事から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載まで多少の時間経過あり)。地元の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
 日本の大手メディアがほとんど触れない、大学院生と美術史教授のアカデミックハラスメント訴訟。このセクハラ裁判をニューヨークタイムズが糾弾している。
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 美術史の著名な教授とその教え子は夕食を終えて、日本画のように美しい古都・京都の川沿いを散歩し、あるバーに立ち寄った。

 数ヶ月前から、二人は多くの時間を共に過ごし、すでに東京の公園で一度、キスをしている。そして今度は、酒を飲んだ後、彼女を自分のホテルに誘い、そこで(彼女が自分の意思に反したと主張する)性的関係を持った。これについて、教授は合意の上だったと主張している。

 以降、2人は10年にわたり秘密の関係を続け、密かに会い、情事を重ね、何度も海外旅行に出かけた。

 次第に彼女は、この関係は教授が二人の間の力関係を利用したものであり、自分が本当に合意したことはなかったと考えるようになった。

 そして、ついに関係を断ち切った彼女は、大学に正式に苦情を申し立て、教授をセクハラで訴えた。彼女の主張は、教授が23歳の時に指導教員の立場を利用して、彼女に性的関係を持ち掛け、強引に関係を結び、その後何年も彼女を根本的に自分の支配下に置いたというものであった。

 しかし、教授の妻からは、婚外恋愛を婚姻契約の侵害とみなす日本の民法に基づき、不貞行為と精神的苦痛を与えたとして彼女自身が訴えられることになった。

 結局、妻は250万円を勝ち取った。教授は昨年、"不適切な関係"を行ったとして解雇された。しかし、裁判所は、教授が彼女の意思に反して強要したことはないと判断し、彼女は敗訴した。

 現在38歳の佐野メイコさん、教授の林道朗氏(63歳)、妻のマチコさん(74歳)のこの物語では、女性がセクハラで裁判を起こす(ましてや勝訴する)ことはほとんどなく、欧米のように「MeToo運動」がまだ定着していない日本における性的な力関係のもつれが際立っている。

 佐野さんは、林氏に対するセクハラ訴訟が長丁場になることを承知していた。しかし、「グルーミング(手なずけ行為)やガスライティング(嫌がらせで女性を混乱させて支配する精神的虐待)のような、日本人に馴染みのない心理的虐待」を経験したことを示すために、訴訟に踏み切ったと、彼女はいくつかのインタビューで語っている。

 この事件は、日本のニュースメディアではあまり注目されなかったが、日本の美術界や学術界を揺るがした。日本ではアメリカとは異なり、教授と学生の関係を禁止している大学はほとんどない。同時に、年齢や地位による上下関係が文化的に浸透しているため、部下(特に女性)が上司にノーと言うのは難しい、と専門家は指摘する。

 「日本には、協調性を重んじる文化がある」と、性暴力被害者のための非営利団体「Spring」の代表理事である佐藤由紀子氏は言う。「だから、性的関係を求められても、断ることが難しいと思う場合がある」。

 佐野さんも法廷で、繰り返しそう主張した。しかし、日本の性的暴行に関する法律は同意に言及しておらず、暴力によらない性行為の強要には懐疑的である。

 「性暴力に関しては、大きな脅威があり、被害者が反撃しなければなりません」と、日本の性犯罪法の改正の可能性を検討する弁護士の川本瑞紀氏は言う。現在の法律では、"心理的に強制されてイエスと言わされた人"は保護されないと彼女は言う。

 一方、米国や欧州の一部の国では、病気や酩酊状態などで被害者が合意できない場合や、加害者が権威ある立場を利用する場合も考慮した法律が定められている。

 佐野さんは、林氏との最初の性的関係の後、「あざだらけになっていなかったので、自分が性的虐待の被害者だとは思っていなかった」と裁判の資料で述べている。

 3月の判決では、強制と合意の間のグレーゾーンを認め、林さんが解雇されたことを「妥当」と判断した。しかし、佐野さんは涙ながらに、「立場が上の人が、相手の精神を実際にどうできるかを考慮に入れていない」と述べた。

 佐野さんは敗訴したが、裁判所は、妻の訴訟で佐野さんに課された賠償の責任を負担するため、教授に128万円を支払うよう命じた。

 東京の大学でジェンダー法について講義している谷田川知恵氏は、夫婦間の契約でありながら、それを破った佐野さんに責任があるとされた妻の訴えは「少しおかしい」ように見えるだろうと述べた。しかし、専門家によれば、このようなケースは決して珍しいことではないという。

 妻(本記事のためのコメントは控えている)は、裁判資料の中で「不倫をした夫を恨んでいるが、セクハラをしたとは思っていない」と述べている。彼女は、佐野さんが「まるで自分が心から被害者であるかのように、2人の関係のすべての責任を夫に押し付けている」と非難した。

 佐野さんは上智大学の学部生だった2004年に教授と出会い、その美術史の授業に参加した。林氏は日本近代美術の専門家として知られ、フェミニズムや言論の自由について率直な意見を持っていた。

 二人の関係は、長い間、大学の教員と学生であった。二人は彼女の大学院進学の希望についても話し合った。林氏は推薦状を書いたり、インターンシップを手伝ったりした。

 2007年、彼女が大学院に入学する前の夏から秋にかけて、その一線は曖昧になり、林氏は彼女との恋愛関係を求め始めたと彼女は言う。定期的にお茶に誘われる。彼女は断れないと思った。

 「"読書のすすめ "とか "大学院の勉強会"とか、私に期待してくれているように感じました。」と佐野さんは言う。「それを裏切れない感じがしました。」

 上智大学のような日本の教育機関には、学生と教授の関係についてより明確な指針が必要であると、一部の論者は述べている。政府は近年、大学に対し、セクシャルハラスメントや暴力に関する相談窓口についてより多くの情報を提供し、懲戒処分が行われた場合にはその内容を開示するよう求めている。

 大阪大学の牟田和恵教授(社会学・ジェンダー学)は、「権力者を喜ばせたい」という思いから、「指導教員や教授と学生との関係は、定義上ハラスメントになる」と指摘する。

 林氏(本記事のためのコメントは控えている)は、証言の中で、自分が結婚しており、佐野さんの上司であったことから、その関係が「不適切」であったことを認めた。しかし、彼は佐野さんがそれを承諾し、さらには自ら望んでいたと述べた。

 その証拠として、佐野さんが大学院に入学する前の夏、他の学生たちと一緒に中部地方の博物館巡りをした際に送ったお礼のカードがある。そのカードには、「Dearest Professor H」と英語で書かれ、日本ではあまり使われない「xox」(ハグとキスを送ります)と書かれていた。

 「学生から教授へのメッセージで、"Dearest"と呼ぶのは、普通では考えられない親しさがある」と林氏は証言している。

 佐野さんは、この手紙は単に "感謝とお礼"を伝えるためのものだと言っている。

 裁判記録によると、林氏は佐野さんと一緒に過ごすうちに「距離が縮まった」と語ったという。佐野さんは、幼少期を英国で過ごし、日本では疎外感を感じていることを林氏に打ち明けたが、林氏は、自分が海外での経験から理解できると答えた。

 秋、大学院に入学した佐野さんは、林氏の指導を受けながら、東京の公園を散歩した。そして、キスをされた。

 「断って面目をつぶすことは論外だった」と彼女は言う。

 裁判の資料や証言の中で、林氏(当時48歳)は、佐野さん(当時23歳)と交際していると信じていたと述べている。

 佐野さんは、同年秋、彼が美術シンポジウムで講師を務める京都への旅に同行した。彼がホテルの彼の部屋に一緒に泊まろうと言ったとき、彼女は何度も断り、自分の部屋に戻ると言ったと証言している。彼は自分の部屋に来ることは合意の上だったという。

 両者とも、林氏が佐野さんに口による性行為をしたことを証言したが、佐野さんはそれを嫌がったと言った。佐野さんは、何度も「待って」と言って、抵抗の意思表示をしたという。「でも、彼は "大丈夫、大丈夫 "と言い続けました」と佐野さんは語った。

 その後10年間、2人は東京のいわゆるラブホテルで定期的に会い、学術的な議論と性的関係を重ねた。林氏は、このホテルの一室で、佐野さんの卒論に目を通したという。

 佐野さんは、林氏の指導を受けている間も、卒業後も、林氏に親愛の情を送り、フランス、イタリア、スペインへの旅行に同行していた。林氏は、このような行動から、この関係が合意に基づいていたことが改めて証明されたと述べているが、本人は秘密にしたかったと認めている。

 彼女の行動は洗脳の証であり、将来のキャリアに関わる権限を持つ指導者に「失礼」なことをするのが怖かったのだという。

 彼女が関係を絶とうとすると、林氏は彼女を「妄想癖がある」と非難したり、「もう誰とも付き合えない」と言ったりしたと、彼女は裁判所に提出した書類の中で述べている。彼女は、林氏がこう言ったという。「セクハラで訴えたければ、私を訴えればいい。でも、あなたはそういう子じゃないから、訴えないでしょう」

 林氏は裁判の中で、そのような発言や佐野さんへの強要はなく、2人は単に「自由恋愛を楽しむ大人」であったと述べている。

 「私はあまりにも甘かったと理解していますし、今でもそんな自分が嫌いです。」と佐野さんは言います。「"嫌です"と言って逃げればよかったと思うことが何度もありました。」

 2018年の春には、佐野さんは東京のアートギャラリーで働き、きっぱりと関係を断ち切った。彼女はそのことを家族や親しい友人達に少しずつ話し始め、激しい羞恥心と闘った。彼女は自傷行為をするようになり、自殺を考えたという。

 佐野さんの長兄である佐野周作さんは、妹から「洗脳された」と聞いたという。「"傷ついている"ということは、確実に分かった。」と彼は言った。

 東京の美術館で佐野さんと共同制作した学芸員補の熊倉晴子さんは、佐野さんから美術界で尊敬されていた林さんの話を聞いて、「がっかりした」という。

 翌年早々、佐野さんは林氏の妻に連絡を取った。佐野さんは、林妻に「このままではいけない、申し訳ないと思った」という。佐野さんはまた、林氏が自分を操っていたと感じていることを林氏の妻に知ってもらいたかったのである。

 裁判資料によると、林氏は妻に関係を告白し、妻は佐野さんを訴えたという。

 裁判記録の一部である電子メールでは、林夫人は弁護士を通じて佐野さんに対し、最初から「夫から強要された関係であれば、簡単に大学に苦情を出すことができたはず」と書いている。

 セクシャルハラスメントの専門家は、この文化を変えるには法的措置以上のものが必要だと言う。

 大阪大学の牟田氏は、大学の方針として教授と学生の恋愛関係を禁止することを提唱している。「女性がキスを受け入れたり、デートに行ったりすれば、それは合意の上だというのが一般的な見方です」と言う。「私たちは風潮を変えようと奮闘していますが、まだ効果を上げているとは言えません。」

 佐野さんは現在、心的外傷後ストレス障害の治療のため、セラピーを受けているという。彼女は両親と暮らしており、2019年に画廊を辞めてからフルタイムで働くことはできていない。

 彼女の今の主な目標の1つは、"ノーと言える力"を回復することだという。

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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。伊勢崎第二中、足利学園(現白鳳大学足利高校)、新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowers」における空間と時間 人文地理学的解説」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
夕暮れ時の広島・原爆ドーム

広島を生き抜いた木々/ウィル・マツダ(ゲストエッセイ 米国在住日系人写真家・作家)
地元プロが翻訳 ニューヨークタイムズ社説11(2023年5月5日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
 今回は原爆を生き抜いた木「被曝樹木」について、アメリカに住む日系人写真家からの投稿です。日本では議長国として、5月19日〜21日までG7広島サミットが開かれます。
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 祖母から原爆の話を聞いたことがない。私が尋ねると、祖母は家族に何が起こったか自分にはわからないと答えるが、つまりそのことについて考えたくないのだろう。

 米国が広島に核兵器を投下した1945年8月6日の朝、祖母は20歳でホノルルに住んでいた。原爆は、祖母の祖母、叔母、叔父、いとこなど、祖母の家族が住んでいた地域の真上で爆発した。街は破壊され、10万人以上が死亡した。祖母は、叔父がただ一人生き残ったことを聞かされた。

 科学者の推計では、爆発時の地温は3,000〜4,000度で、人体を黒塵に変えてしまうほどの高温だった。その日のことを考えようとすると、一つの家族でテーブルを囲んで朝食をとっていたのに、そのまま風の中に消えてしまう、そんなイメージが思いうかぶ。

 私は広島に行ったことはないが、長い間、家族の歴史の一部と物理的につながりたいという強い思いがあった。遺品、手紙、装飾品など、残されたものはないかと探し続けていた。

 意外なことに、広島とのつながりを最も感じさせてくれたのは、モノではなく、生きているもの、つまり木であった。

 正確には、イチョウの木だ。

 イチョウは中国原産の樹種で、秋には鮮やかな黄金色に染まる扇状の葉をつける、地球上で最も古く、最も回復力のある木の1つである。この木は、恐竜を絶滅に追いやった隕石からも生き延び、原爆からも生き延びた唯一の生物である。その理由は、根が土の中に深く伸びていたため、焦熱から守られていたのである。

 日本語では、原爆の生存者を被爆者と呼ぶ。この生きのびた木も「被曝樹木」と呼ばれている。

 被爆樹木の一部は現在も生きており、被爆者と同様に、その子孫は世界中にいる。

 広島出身の被爆者であるヒデコ・タムラ・スナイダーさんは、10歳のときに原爆で母親や友人、多くの親族を失った。2003年にオレゴン州に移り住んだ彼女は、2017年に被爆者のケアを行う団体「グリーンレガシー広島」と提携し、生き残ったイチョウの種を米国に持ち込んだ。スナイダーさんは、合計51個の種を植え、「ヒロシマ・ピース・ツリー」と名付けた。

 2019年、NBCのクラマスフォールズ局のインタビューで、スナイダーさんはこう振り返った。
「私は母を育てることができない。いとこを育てることはできない。でも、木なら、できるんです。」

 ここ数ヶ月、私はオレゴン州各地のピースツリーを訪ねている。水をあげたり、写真を撮ったりもした。そして、その葉に触れてみた。それらの木々がここにいることに感謝し、私もここにいることを伝えた。

 原爆の爆発は強烈な閃光を伴い、広島のコンクリートの表面は写真のネガのようになった。銀行前の階段に人型の影が残されている例もある。人物の輪郭以外が爆風で乳白色に漂白されたのだ。

 私はこの木々を撮影しながら、光、影、写真と原爆の関係について考え、自分の影をフレームに入れてみたこともあった。

 休んでいる身体、踊っている身体、観葉植物に水をやっている身体、神経質な身体、痛む身体、他の身体を抱きしめている身体、教室にいる身体、市場で野菜や油やトイレットペーパーや靴を買う身体、帰宅途中の身体で混雑する通り、誰がいつも何かを揚げているか、誰が家に帰ってこないか、誰が夜通しライトをつけたまま寝ているか、お互いによく知るほど近くに住む隣人の身体、すべての影は身体の物語を伝えている。

 身体でいっぱいの街。

 97歳になる祖母は、この秋に広島に帰る予定だったが、どうやらそれは難しそうだ。一緒に行きたかったが、祖母が行けないのであれば、私一人で行くつもりだ。

 かつて私たち家族が住んでいた場所を訪れ、私がよく知っている苗木のお母さんやおばあちゃんである被曝樹木を訪ねる。その葉に触れ、私たちは生き延びたのだと伝えよう。
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。
         
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