【ピープル】伊勢崎市内外の各分野で活躍する、市民を紹介します。各種団体のトップに、業界の現状と今後を聞き、まちづくりに取り組む市民も取り上げます。情報はinfo@press-isesaki.com
 20歳〜40歳までの青年経済人を中心に、会員は年間を通してさまざまな青少年育成や地域振興事業をボランティアで行っている。この社会活動がコロナ禍で一変。家族の生活、会員の企業活動にも大きな影響を及ぼした。「従来の活動は平常時のこと。今までのように活動を続けていいものか」。開催期限が迫る、ひとつひとつの事業に対して常に決断を迫られる葛藤の日々が続いた。

 やってもやらなくても賛否両論、クレームはついて回る。「止めるのは簡単。止めていいわけがない。社会を明るく豊かにしようという理想に近づくために、今少しもがいてみよう」と前を向いた。コロナ渦関連では4月、伊勢崎市社会福祉協議会に5000枚のマスクなど、6月には訪問看護団体に防護服600着を寄付。他の集会事業は随時、Zoom(テレビ会議)やユーチューブ配信などに切り替えて実施した。

 7月例会のZoomによる3理事長鼎談。金沢JC(鶴山雄一理事長 石川県)の企業タイアップによるマスクの共同購入、枕崎JC(神園知洋理事長 鹿児島県)の低迷飲食店の食材活用100円弁当で子供家庭支援に刺激を受けた。中止が決まった「いせさきまつり」に代えて9月22日、コロナ禍で疲弊した地域を元気づけ、その終息後の明るい未来を見据えた活力キャンペーンを実施。市内各所で動画を上映、配信する。シネコンのムービックス伊勢崎では10月22日まで、映画の幕間に15秒の動画を上映している。

 板金施工専門の会社で3兄弟が役割分担し経営にあたっている。副社長の兄は現場を統括し、自身は積算、弟は営業全般をこなす。2018年11月に結婚し、昨年6月に誕生した長女はかわいい盛りだが、生まれてほどなく、多忙な理事長就任の覚悟を決めて今に至る。「こうした状況でも引き受ける人間の存在を会員に知って欲しい」が密かな願いだったが、現実は今年に入ってコロナ渦も加わり、心は何度も折れた。

 伊勢崎JCの今年度スローガンは「百折不撓」。失敗を恐れずに何度でもチャレンジしようと、会員と自らを鼓舞する。失敗を回避し続けてきた人生だったが、JCでは多くの先輩から失敗に対する叱咤激励の洗礼を浴びた。「人前での話は今でも緊張」と照れるが、1月の新春祝賀会以降、恵まれた体躯にあった堂々の理事長挨拶は、歴代に引けをとらない。風呂、車中、カラオケボックスのマイクを前に、回数を重ねたリハーサルを最後に明かしてくれた。(2020年9月21日) 
 8月を迎えると6日広島、9日の長崎原爆投下に続いて15日の終戦まで、悲惨な戦争犠牲者の慰霊と惨禍を記憶に留める活字や映像を目にする機会が増える。伊勢崎では「伊勢崎空襲を語り継ぐ会」が例年、戦争体験者を交えた講演会を開いていたが、新型コロナウィルスの影響で今年は紙芝居「私たちが駆け抜けた青春 伊勢崎空襲の記憶」のDVD(上映時間約30分)を制作した。完成後に県や市図書館、市内の小学校に配る。

 終戦前夜の14日深夜から15日未明にかけ、B29爆撃機が大量の焼夷弾と爆弾を投下した伊勢崎空襲。紙芝居は既に3年前、佐藤さんを中心に会員らが制作し、小学6年生への出前講座で披露している。取材した体験談をもとに、伊勢崎高等女学校の生徒と中島飛行機伊勢崎工場勤務の青年の目を通して、被災した街や戦時下の若者の生活と心情を綴った内容。原画は佐藤さん、着色は「ひまわり09水彩画倶楽部」。DVD化の朗読は、読み語りの会「はすの実」が協力した。

 紙芝居制作は3回目。前2回は伊勢崎市景観サポーター活動で関わった。この時、題材となった施設の歴史を調べる過程で、伊勢崎のアイディンティティは失われていく「銘仙」「空襲」に集約されると自身は感じた。とりわけ、語り継ぐ体験者が年々減っていく「空襲の記憶を後世に伝えたい」の思いを強くした。郷土史家で、一緒に活動した故星野正明さんの薫陶も大きかったという。

 年に数回開催している小学6年生対象の出前講座。「水がスポンジに浸み込むように、当時のことを理解してくれる」と、終了後の感想文に感動している。自分たちの住むこの街は、かつて「伊勢崎空襲」という悲惨な出来事を経て今に至る。「我々にできるのは、これを後世に伝えることだけ。結果として、子供たちに平和への希求が芽生えれば」と活動の意義を淡々と語る。

 建設コンサルタントとして長年、都市計画や土地区画整理事業に携わってきた。歴史の掘り起こしや資料作りなど、語り継ぐ会の活動にも活かされているという。昨年9月には勤務する会社のトップに就任した。多忙でほぼ定着してしまったという、午後9時過ぎの帰宅。来年1月には創業50周年の節目を迎えることから「次の50年の道筋を」と、今後も「午後9時過ぎの夫」は続きそうだ。

 取材時にペンを走らせ始めた記者に、自らのペンをすっと差し出してくれたのには気配りを感じた。ボールペンのインクがなくなっていたのを知らずに書き出し始めていたためだ。終了後の写真撮影では「歯をほんの少し見せて、にこやかに」の注文に、少し表情をひきつらせながら応じてくれた。取材内容を考慮すれば、少し場違いな要求だったと後になって気がつき、笑顔の写真は封印した。(2020年8月11日)

 観音山丘陵の斜面地に建つ住宅団地。その一角、片流れ屋根のシンプルな外観が特徴的なミニギャラリー空華(くうげ 高崎市寺尾町)で、7月1日〜12日まで個展「フラットに」を開いた。銅版画を主体に水彩や色鉛筆で色を加えたコラージュなど、多彩な技法を駆使した最新作30点を展示。「Rose Box」はバラの葉が透き通るように見える箱の銅版画の一部に、天使のコラージュを重ね合わせている。

 初期のモチーフは人物が多かった。最近は植物や飼っているネコなど、日常生活に題材が移っている。花や植物を育て、それをじっくり観察することに関心が高いからだ。言葉からも作品イメージを膨らませている。今回の個展でもネコを描いた「頭で判断せずハートで受け取る」、ペンギンを描いた「自らに静寂をもたらす」など、作品タイトルは秀逸で時に哲学的だ。

 技法は初期のころのメゾチントから、エッチングやドライポイントなど、その幅を広げてきた。他の銅版画家にはあまりみられない、水彩や色鉛筆画などのコラージュを重ねる作品は、ここ最近のことという。「きれいな色を使いたい」が、銅版画では難しい。そこで刷った後に水彩で色を加え、色鉛筆で大胆に重ねる。その際に「作品として一体感が保てるような処理」に腐心している。

 片端から読破していたという偉人たちの自伝は小学生時代から。版画、絵画、彫刻に加え、「エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞作家、その映画監督でも話題を集めた池田満寿夫の自伝「私の調書」(1976年)。本を手にしたのは高校1年生の時。まるで未知の世界だった銅版画に一気に魅了され、作品集や技法専門書にまで手を伸ばした。中学は陸上部で高校も同様に入部したが、1年生の夏を過ぎると、早速美術部に転部していた。

 高校卒業後、銅版画を本格的に学ぶ専門科目が美術系大学に見当たらず、たどり着いたのが3年間、専門的に履修できる創形美術学校の版画科だった。予備校通いの1年間、合格するも親の反対で一旦は諦めて、その後に再受験。紆余曲折で浪人生活は3年に及び、それでも初志を貫いた。「好きだから」「楽しいから」と、銅版画家を志した動機を何度も口にした。

 出産で退職した2年間を除き、美術学校卒業以来、滞ることなく創作を続けている。作品は毎年、県内外の公募展や個展、グループ展に出展。結婚後は主婦業とのオンオフはきちっと切り替え、イメージがわかないときは筆を休めている。職場結婚の夫はグラフィックデザイナーで、互いの理解は得やすいという環境。今後の創作については、自らの座標を求めて「自分のやれることをやるだけ」と、気負わず恬淡としている。(2020年7月29日)。

糸井千恵美さんホームページ

 丸や長方形の石鹸(Soap)に、ナイフで模様が彫り込まれると、見事なバラに様変わりする。タイの宮廷で料理を美しく飾るために、スイカやメロンなどの果物や野菜に彫刻(Carving)したのがその始まり。「フルーツ&ベジタブルカービング」と呼ばれ、ここから派生したのが、石鹸を材料にした「ソープカービング」だ。より繊細な模様と香りを楽しめることから、インテリアやプレゼントにと日本でも愛好者が増えている。

 夫の海外赴任に伴って2001年から、3年間滞在したドイツのフランクフルト。同様に夫の海外赴任でタイからきた日本人女性と語学学校で机を並べ、フルーツカービングの存在を知った。果物・野菜を素材に、仲間数人と彼女から学び始めた。「後々も残るものに」と、帰国1年前には材料を石鹸に切り替えていた。

 その魅力として手軽さを挙げる。道具はナイフと彫刻刀のみ。安価な材料、わずかな作業スペースに「手先の器用さも、あまり関係ありません」と付け加える。「作品として残していくと大きなアレンジメントにも」(写真参照)と、さまざまな楽しみ方も紹介する。6年前に、これまでに制作した作品を一区切りとする写真集「ソープカービングアレンジ」を自主制作している。

 公民館やカルチャーセンターを会場に教室を始めて16年で、生徒は約150人。個人宅やサロン形式でも指導し、展示会&販売会の他、子供向けのワークショップも開催している。新型コロナウィルスの影響で、しばらく活動を休止していたが、6月に入り各教室の再開が順次始まっている。“巣籠状態”期間中は、グループラインに「こんなの作りました」と、生徒のモチベーション維持に作品投稿を続けた。

 社会人2年目に上司の紹介で、英国のレディング市に赴任中だった社員と結婚。ほどなく渡英し、7年後に帰国。夫がその7年後に再渡英(英国4年、ドイツ3年)し、海外暮らしは通算14年に及ぶ。この間、2人の娘の子育ても。日本人コミュニティーに加え、図書館ボランティアや料理コンテスト参加など、現地外国人との交流も深めた。週末は「有名作品はほとんど観た」というミュージカル鑑賞、長期休暇は旅行を楽しんだ。

 年間平均100日は出張で、夫不在という海外暮らし。不安や悩みを振り返っても、具体的なことはあまり思い起こせず「むしろ子供のほうが大変だったのでは」と気遣った。ソープカービングでは下書きもない石鹸(中心に方位線のような目安印はある)に、イメージした繊細な花のデザインを縦横無尽にコツコツ大胆、一気呵成に彫り込む。その作業は何事にも動じない、そのおおらかさが絶妙に調和しているのかもしれない。(2020年6月7日)

ソープカービング教室などの問合せ「yasuko0903@rhytlm.ocn.ne.jp
 新型コロナウィルスの猛威が世界中に吹き荒れている。人の交流と物流が滞り、消費の落ち込みは日に日に深刻さを増している。「会議所内に相談窓口を設けるなど、資金繰り支援を」と、地域経済を牽引する経済団体として、中小企業の側面支援を真っ先に口にした。言葉を選びながら、取り組みを丁寧に説明する。

 就任早々打ち出しているのが会員の増強だ。年々減少傾向にあり、現在の会員は約2200社。「目標は2500社」を掲げ、内外に協力を求めて行く。中小企業は経営者の高齢化、後継者不足が深刻で課題は多い。かつては地域を支えた繊維産業。加えて化学、食品業界の会員も減少傾向にあり、底上げを模索する。

 そうした中で期待をかけているのが、青年部や女性部会の活躍。伊勢崎オートレース場で昨秋開かれた、もんじゃ焼きのギネス挑戦など、注目を集めた事業の他、「軽トラ市」「イルミネーション」などを例に挙げ「元気を出して事業を円滑に推進できる規模の維持を」と訴える。

 もうひとつの課題が、古賀友二前会頭から引き継いだ、老朽化した会議所会館の建替事業だ。移転新築候補地の検討を重ねてきたが、絞り込みには至らなかった。そこで3年間取り組んできた建設特別委員会は一旦解散し、新たな特別委員会の元に、事業の再スタートを切る。現在地の建て替えを含めて基本に返り、本来の望ましい会議所会館のあり方を追求。そのための予算や建設地を再検討していく。

 中小企業庁が求めているBCP(事業継続計画)。自然災害や大火災、テロ攻撃などの緊急事態に備えて平時に行うべき活動や緊急時の事業継続方法・手段などを、取り決めておく計画だ。会議所でも既に昨年、マニュアルは策定している。そのベースとなる会議所会館が老朽化し、脆弱なままではでは運用体制の確立にも支障をきたす。「事業化を急ぎたい」として、災害に強いBCP対応の新会議所会館建設に力を注ぐ。

 祖父が1948年、伊勢崎の地に創業した各種産業用・医療用ガス販売の辻商店。1961年には太田営業所を開設している。1992年に3代目社長に就任し、2008年から会長を務めた。この間、高度な技術を求められる医療分野にも進出。医療ガスだけでなく、在宅酸素療法、睡眠時無呼吸症候群などの在宅・地域医療の支援体制を整えている。

 BCPは既に、自社で先行して取り組んできた。昨年、太田市泉町の5300平方メートルの敷地に、BCPセンターを開設。取扱商品の災害・緊急時の備蓄など、取引先の事業継続サポート体制を構築した。建物は浸水被害を防ぐため、1階床を1メートル嵩上げ。停電時の非常用発電機への切り替え、BCP発動時の連絡手段として衛星電話も完備している。

 健康には留意して1週間に1回はスポーツジムに通い、ゴルフは「誘われれば断らない」。長男一家との同居で、孫と一緒のためか「揚げ物が多い」と食生活をちょっと心配する。神戸に住む次男家族も合流して、家族旅行を楽しんでいる。国内は北海道、海外はハワイにまで足を伸ばした。「支払いは全てこちらもち」とこぼすが、顔は笑っている。(2020年3月1日)

 伊勢崎市出身で鋳金工芸家の森村酉三の没後70年展「森村酉三とその時代」が10日まで、群馬県立美術館で開かれている。3年前から担当学芸員として企画から関わってきた。一般的にはなじみの薄い“鋳金”という芸術分野。戦前から戦中、戦後の時代に「日本の伝統と西洋のモダンを掛け合わせ、独自の芸術文化を生み出すことができた良き時代を駆け抜けた存在」と森村を解説。もっとも「金属には不遇な時代だった」と付け加えた。

 戦時中の供出を免れ、伊勢崎市立三郷小学校が所蔵する森村の新田義貞像。生誕120年の2017年の年頭、双子の娘たちが通う縁から、残っていないと思っていた作品が身近にあることを知った。それが企画展開催へのきっかけだった。美術館の大展示室の大空間を埋めるための収集点数に不安はあったが、森村酉三・寿々夫妻の研究者の手島仁さんの協力も大きな弾みとなった。

 モダンなデザインの鳥、動物などの小さな置物や工芸的な花瓶、建築装飾品、人物などの彫刻と、森村作品は多岐に渡る。ただ文献で存在は確認できていても、戦中の金属類供出などで森村作品そのものは行方知れずが少なくない。所有は1,2点という個人も多く、情報を集めて地道に各地を訪ね歩いた。「あ〜、ここにあったんだ」という発見もたびたび。埋もれた作品に辿りつくことで、森村作品90点を含む140点を集めた。

 高崎の白衣大観音原型制作者で知られている森村は「当時の鋳金工芸の最先端を行く改革者。一方で、伝統を重んじるという両面を持つ」。企画展では「花瓶などでは工芸的面、人物では彫刻家として、動物の置物ではモダンなデザイン」などが見どころと指摘する。

 中学校の歴史を学ぶ中で、仏像や立体物、彫刻に興味を持った。大学では西洋の古代彫刻や、ギリシャ、ロマネスク時代の彫刻を学び、フランス留学時代はそれらの現地を訪ね歩いた。建築の装飾にも興味があり、中世の建築コースも専攻した。地図を片手にフランスの片田舎を駆け回ったことで「ヨーロッパの文化の原点を知ることにも」と当時を思い起こす。

 所蔵作品の保存管理や展覧会の企画から開催までに関わる美術館の学芸員。「よりダイナミックだった」と振り返るのは、館林美術館在籍時に担当した「再発見!ニッポンの立体展」(2016年7月〜9月)。静岡・三重の県立美術館との共同巡回展として、アイデアと調整に時間をかけた。とはいえ学芸員の仕事は「一般的には雑用も多い」と、足を使った今回の企画展のようにフットワークの必要性も説く。

 常に企画展のテーマを考えている。プライベートの美術展巡りは「やはり仕事の延長になる」と家族は伴わない。娘たちには違う分野で、自分たちの好きなことを見つけて欲しいという思いもある。一方で足を運んで欲しいのは、自身が担当した企画展。普段から「理系の世界」の夫の関心は薄いが、「せめて」の思いは少なからずある。(2019年11月8日 廣瀬昭夫)
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