【カルチャー】市民一人ひとり、または各種団体の様々な文化活動を取り上げます。地域の歴史と伝統を守り、発展させる取り組みの紹介に力を注ぎます。情報はinfo@press-isesaki.com
【写真】昨年開催された「第4回広瀬川カヌースラローム大会」

市街地の広瀬川でカヌー競技やクラブ練習
スラローム大会主催や体験教室で底辺拡大 伊勢崎SSC

伊勢崎市内を流れる広瀬川で、市街地では珍しいカヌー競技やクラブの練習が行われている。NPO法人伊勢崎西部スポーツクラブ(平林知巳理事長)が9月6日に開く「第5回広瀬川カヌースラローム大会」(8月21日申込締切)は、セルフレスキューができれば初心者参加も可能。カヌーに親しむ底辺人口を広げようと、同クラブはカヌークラブ運営や今年から新たに体験者教室も始めており、気軽な参加と大会観戦を呼びかけている。

大会会場は伊勢崎市連取本町内を流れる広瀬川の右岸「伊勢崎西部公園」と左岸「ラブリバー親水公園」をつなぐ人道橋「西部うぬき橋」の袂。上流右岸の水門から橋まで150メートルの区間に設けられた10ゲートを漕行し、正確性とスピードを競う。両公園には駐車場も整備され、両岸と西部うぬき橋の上から大会を観戦できる。
 
公認カヌーコーチ資格を持つ平林理事長は伊勢崎西部スポーツクラブ内の「ラブリバー・カヌークラブ」で指導。クラブ員は5月から9月までは広瀬川(ラブリバー親水公園)、冬季は境プールを会場に、毎週土曜日の午後に練習している。上達レベルに応じて吾妻川(東吾妻町)、荒川(埼玉県長瀞町)などに遠征。部員は小中高生から70代まで、幅広い年代が在籍している。

カヌーをより身近に親しんでもらおうと未体験者を対象に、今年の5月から始めているのが毎月2回の「早朝カヌー教室」(日曜日午前7時〜9時)。広瀬川(ラブリバー親水公園)を会場に、小学4年生以上、定員は先着6人まで事前予約で受け付けている。8月は9日、23日を予定している。

平林理事長は千葉県鴨川市生まれで、社会人2年目の1992年からカヌーを始め、96年国体では6位入賞している。「競技人口が少ないカヌーは、今からでも練習次第で全国大会の出場も可能」とし、群馬県で8年後開催予定(今年10月開催の鹿児島がコロナ禍で延期のため流動的)の国体で、国体出場選手の人材発掘、育成にも力を注いでいる。(2020年8月4日)

※「第5回広瀬川カヌースラローム大会」、「早朝カヌー教室」の詳細は、伊勢崎西部スポーツクラブホームページ参照
【写真】グループホームファミリアあずまに飾られた太陽の写真

病院・施設に「癒しの太陽写真」プレゼント
携帯電話カメラが捉えた安らぎの虹色の放光


 太陽が持つエネルギーと、その鮮やかな虹色の放光が観る人の心を引きつける「太陽の癒し写真」。携帯電話のカメラで撮影し、一切の加工はせずに自らプリントまで行う、ヒーリングフォトアーティストの笛木紀予子さん(伊勢崎市在住)は、新型コロナウィルス拡大の過酷な環境下で、人々の健康を支えている病院や施設などに太陽の癒し写真をプレゼントしている。

 写真のサイズは2L版(127ミリ×178ミリ)。写真のみで、額は受け取り側に用意してもらっている。最近のプレゼント先は、グループホームファミリア(伊勢崎市連取町、柳春海代表)が4月に開設した「あずま」(伊勢崎市西小保方町、定員7人)。施設員が笛木さんの写真の件を知り、「入居者の癒しになれば」と申し込んだ。

 笛木さんは1975年生まれ。群馬県立女子大学文学部美学美術史学科を卒業後、心理カウンセラーやアートセラピストの資格を取得している。写真技術は大学と市内の写真店勤務で学んだ。色鮮やかな太陽の写真を、携帯電話のカメラで初めて撮影したのが2006年1月。以後、このカメラを使い続けている。同様の撮影写真が他にないこともあり、その後Mixi掲載で評判に。同年7月にはホームページやブログを開設し、太陽写真のネットショップ販売を始めている。

 市内外での個展や展示委託販売のほか、健康雑誌でも紹介されるなど、この分野で注目を集めるようになると、ニューヨーク、ベルリン、イスタンブールなどの海外企画展にも国内アート会社から声が掛かった。2017年にはインドのガンジー記念館から「国際平和褒章」受賞。2019年開催の「ジャパンウィークギリシャ・アテネ」では「日本ギリシャ文化交流芸術大賞」受賞している。パリのルーブル美術館の地下エリアに展示されたこともある。

 2018年から太陽の写真だけでなく、天界から光が降りてくるようなイメージに加工したフォトアートも手掛け、写真を使ったオリジナルリーディングも行っている。病院、施設などへの太陽の癒し写真提供は、「少しでも気持ちの和らぎと元気を」と2008年から提案していたもの。この間、なかなか手が回らなかったこともあり、今回あらためて呼び掛けている。


希望者はsun39.cart.fc2.com(トップ画面をスクロールした最下段に申し込み呼びかけのコメント)参照。(2020年5月28日)
【写真】右:「森村酉三と伊勢崎」をテーマに講演する手島さん。左:華蔵寺公園内の酉三作「板垣源次郎像」は台座だけが残る

「酉三と伊勢崎」テーマに研究者が講演
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【4】(2019年12月29日) 

 伊勢崎市(旧宮郷村大字連取)出身で鋳金工芸家の森村酉三・寿々夫妻研究者の手島仁さんが12月21日、伊勢崎市立図書館2階ホールで「森村酉三と伊勢崎」をテーマに講演した。地元名門の森村家に生まれ、東京美術学校(現東京藝術大学)在学中から帝展連続入選など、若くして才能を開花させた酉三(1897−1949)。郷里のさまざまな名士の支援とともに、その芸術活動をさらに高めたのが才色兼備の寿々(1903−2001)との結婚だったと、酉三の充実した芸術家生活を紹介した。

 とはいえ、年長の作家が戦後も活動を続けて評価を高めてきたのに対し、酉三は戦後の円熟・完成期を迎えることなく52歳で病死。一方、酉三と死別後、後年は女性鋳金家として白寿を全うした寿々は、52歳で芸術家仲間の洋画家、田中佐一郎と再婚(田中も再婚でこの時55歳)している。手島さんは亡くなる2年前に寿々と面談し、森村夫妻の貴重なエピソードも紹介した。

 酉三は前橋中学(前橋高校)から沼田中学(沼田高校)を経て東京美術学校へ。1972年に新設された帝展の工芸部門に入選すると、以後当選を重ねた。酉三の将来を高く評価し、支援したのが伊勢崎の織物原料糸商の佐藤藤三郎だった。鋳金家としての初仕事が、同商店の新築洋風店舗の噴水装置の置物と外壁2階窓上のブロンズ製草花置物。彫刻家としての初仕事も地元だった。大正期の教育者の板垣源次郎胸像は、胸像部分は戦時下に供出され、台座のみが華蔵寺公園に残っている。

              自由恋愛の代償は森村家の勘当

 寿々は佐波郡伊勢崎町(伊勢崎市三光町)の料亭「藤本」の一人娘。伊勢崎実科高等女学校時代は同級生の兄で、後に作曲家となる町田歌聲に憧れていた、と手島さんは明かす。卒業後に酉三と出会い、酉三27歳、寿々21歳の時に結婚。寿々は大間々町(みどり市)の貴船神社の初デートを初々しく語ったという。一方、自由恋愛の代償で森村家から勘当され、東京・池袋での新婚生活は困窮を極めた。この2年間の苦労が「森村を大人にし、2人を強く結びつけた」と寿々は回想している。

 この時も励まし続けてくれたのも佐藤藤三郎。寿々の親族を中心に行った伊勢崎の「白水楼」の祝宴には仲人を務め、後の後援会の組織づくりにも尽力した。佐藤は森村家とも親しかったことから同家を根気よく説得。帝展などの入選も重なったことで勘当が解かれ、森村家の支援で池袋の丸山町に住居とアトリエ、鋳金工場を新築。酉三の本格的な創作活動が始まった。

            
 手島さんは以後の2人の生活を「高踏的」と表現する。酉三の余暇は、夏の北アルプス登山、冬の妙高高原へのスキー、秋は手塩に掛けた菊の鑑賞と多趣味。登山もスキーも用具は舶来の一流品を使ったという。寿々は周囲から「モガ(モダンガール)」と呼ばれ、合宿中の陸上競技選手の人見絹枝と出会い、親しくなったエピソードも紹介。昭和モダニズムの先端を生きた作家夫婦像も明かした。

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鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【4】
【写真】演奏中の森村恭一郎さん(後方中央)を中心としたジャズグループ

森村家縁者のサックス奏者がジャズコンサート
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【3】(2019年10月30日) 


 群馬県立近代美術館の没後70年「森村酉三とその時代」企画展(9月21日〜11月10日)に併せて10月26日、同美術館エントランスホールでミュージックコンサートが開かれた。伊勢崎市出身の鋳金工芸家、酉三の縁者でサックス奏者の森村恭一郎さんを中心としたジャズグループが、酉三への思いを込めて関連楽曲を演奏。酉三が東京・池袋在住時代の隣人だったという、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズに登場する「少年探偵団」なども披露した。主催は同美術館友の会。

 恭一郎さんは軽妙なMCを交え、ジャズやラテンナンバー、歌謡曲やアニメソングを披露した。「酉」から「鳥」を関連付け、オープニングで「鳥の歌」を恭一郎さんがサクソフォンソロ。「バイバイ ブラックバード」をクインテッドで演奏した。「インザムード」は、恭一郎さんが指導する若手2人とサックストリオを組んだ。「コーヒールンバ」などはフラメンコダンサーも加わり、エントランスホールの臨時ステージを華やかに飾った。少年探偵団は30年以上前の音楽雑誌からの楽譜を初見で演奏した。

 森村家は350年以上続く伊勢崎市の旧家で、酉三と恭一郎さんの父の梓さんは従兄弟にあたる。酉三は16代当主の連太の三男として生まれ、東京美術学校(現東京芸術大学)鋳造科を卒業後、池袋にアトリエを構える。隣同士の関係で親しくしていたのが、推理小説の巨匠、江戸川乱歩。少年探偵団の挿絵には、酉三が原型制作した高崎観音が掲載されるなど、2人の親密な交流が伺える。恭一郎さんは観音像の足元の案内板を見た際の「西という字に一本横線が入った酉の字」の印象を懐かしんだ。

 恭一郎さんは伊勢崎東高校、国立音楽大学卒業後、群馬県立高校の音楽教員。音大在学中にロックバンドやクインテッドに参加し、新宿のピットインなど都内ジャズ喫茶を中心に演奏した。テレビ、ラジオにも出演し、全国ツアーをこなすなかで、著名ミュージシャンとも共演。教員退職後も演奏活動とサクソフォン指導を続けている。

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鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【3】(2019年10月30日) 
【写真】高崎白衣大観音像(中央)と原型(左:森村作、右:清水作)

高崎白衣大観音像の原型制作にライバル
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【2】(2019年10月12日) 

 高崎の白衣大観音原型制作者として知られる、鋳金工芸家の森村酉三(伊勢崎市生まれ 1897〜1949)だが、この制作にあたりライバルがいたことを、群馬県立近代美術館の没後70年「森村酉三とその時代」企画展の関連事業シンポジウム「高崎白衣大観音の謎に迫る」(9月29日開催)で、パネラーで同美術館学芸員の神尾玲子さんが明かした。これまでは群馬県内の研究者や評伝、解説で、白衣大観音を建立した井上工業創業者の井上保三郎が、地元の新進気鋭の彫塑家だった森村に依頼した、とだけ語られていた。

 1936年に建立された高崎観音は、鉄筋コンクリート製で高さ41・8メートル、重さは5,985トン。神尾さんはその2年前の上毛新聞記事(1934年5月29日掲載)などから、原型制作を森村が担当したことを紹介。一方で、長野県出身の彫刻家・清水多嘉示(1897〜1981)も原型制作に関わったことを、清水自作の観音と共に写った遺族の写真や雑誌「総合美術(1933年版)」を紹介しながら、制作が森村よりも先行していたことを明かした。

 清水は1923年から5年間、パリに留学。アカデミーでブールデルから彫刻の指導を受けていた。清水と同年齢で、井上保三郎の長男、房一郎がほぼ同時期に絵画を学ぶために渡仏。交流を深めていたことが、父の観音像建立の原型依頼への接点だったのでは、と神尾さんは推し量った。最終的に森村に決まった経緯は定かではないが、保三郎が房一郎の送ってくる、パリの公園に立つ国家功労者の銅像の絵葉書に感化され、観音像建立を思い立ったことにもふれ、父子2代にわたる様々な想いが込められた物語の存在を指摘した。

 シンポジウムでは井上保三郎・房一郎研究者で元井上工業職員の塚越透さんが、公共建設にも芸術性を求めた保三郎が、沼田中学校(現沼田高校)建設に当たり、森村に五常の鐘(1928年)の制作を依頼した経緯を紹介。元小学校長で、群馬歴史散歩の会編集委員の田口さんは、保三郎の天皇陛下単独拝謁が建立への思いを強くしたことを強調した。

 前橋学センター長の手島仁さんが、高崎観音山公園と観音像建立までの経緯などをシンポジウム冒頭で概略説明。質疑応答後に、森村の妻・寿々さんが2001年に亡くなる2年前に聞いたという「一生の仕事が出来て良かった。高崎観音像の仕事に関わることが出来たのは誇りである」とした、森村の観音像への特別な思いを紹介。以後、同様の仕事は一切、請けなかったというエピソードで、シンポジウムを締めくくった。

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鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【2】(2019年10月12日) 
【写真】左上:高崎白衣大観音の原型。右上:佐藤藤三郎商店の建築プレート。左下:帝展出品作品「ペリカン(銀香炉)」。右下:前橋市水道局の水道供用栓。

群馬県立近代美術館初の本格的個展
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【1】(2019年9月25日)


 伊勢崎市(旧宮郷村)出身の鋳金工芸家で、高崎の白衣大観音原型制作者として知られる、森村酉三(1897〜1949)の没後70年企画展「森村酉三とその時代」が、高崎市の群馬県立近代美術館で11月10日まで開かれている。恩師や同年代作家、妻・寿々の作品も含めた総展示は約140点に及ぶ、初の本格的な回顧展。当時の鋳金芸術が、時代とともに発展してきた推移も知ることができる。

 酉三は前橋中学(前橋高校)から沼田中学(沼田高校)を経て、東京美術学校鋳造科(東京芸大)に進学。在学中に農商務省主催の美術工芸展覧会に4回連続入選を果たすなど若くして頭角を現し、大正から昭和にかけて鋳金家として活躍した。戦前の帝展・新文展を通じて工芸部門で、群馬県出身者として活躍した唯一の作家として評価されている。

 酉三作品の展示は約90点。作品は花瓶や鳥や動物の置物、郷土名士の胸像や新田義貞像、公共鋳造物、高崎白衣大観音の原型制作など多岐に渡る。人物彫刻や公共鋳造物は戦時中の供出で多くが失われ、現存する作品は決して多くない中、都内や地元伊勢崎、前橋、高崎の個人所蔵家の協力も得て集めた。

 東京美術学校を卒業後、鋳金工芸家・彫刻家としての酉三をスタートから手厚く支援したのが、森村家と親しかったという、伊勢崎で織物原料商を営んでいた佐藤藤三郎商店。1924年(大正13年)竣工の瀟洒な店舗建築2階窓に、藤模様の鋳造建築プレートを制作。新築記念披露品として亀と兎の花瓶も製作している。

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鋳金工芸家「森村酉三」没後70年【1】(2019年9月25日)
【写真】上:伊勢崎市庁舎の市長室で記者会見した、(右から)五十嵐市長、篠原監督、主演の山崎さん、原作者の横山さん。下:撮影に使われた伊勢崎市東本町の文具店

民家やアパート、風景など重要なシーンを伊勢崎市内で撮影
横山秀夫原作 映画「影踏み」監督や主演者ら伊勢崎市長表敬訪問

 群馬県内の全編ロケの中でも伊勢崎市内で多くの撮影が行われた、横山秀夫さん原作映画「影踏み」(篠原哲雄監督)の関係者が、11月の全国公開に先駆けて5日、五十嵐清隆伊勢崎市長を表敬訪問した。ミュージシャンで主演の山崎まさよしさん、篠原監督、横山さんらが、市や市民に感謝を述べるとともに映画の撮影秘話を語った。

 元上毛新聞記者で「クライマーズ・ハイ」「64」などで知られる横山さんは、警察目線の犯罪小説が多いが、「影踏み」は泥棒(作品では忍び込みのプロ“ノビ師”)が主人公という異色作。映画は謎解き犯罪ミステリーにとどまらない、奥深いヒューマンドラマが展開する。会見では山崎さんを犯罪者にしてしまったことを詫びる横山さんが「もう少し後なら一級建築士(現在のベストセラー『ノースライト』主人公)に」と笑わせた。

 篠原監督によると、伊勢崎市内では主人公が忍び込む民家や川の土手など、いずれも重要で印象的なシーンを撮影。「人々が、ごくごく普通に暮らす庶民的な雰囲気がいい」とロケ地選定の理由を説明。撮影に協力してくれた市民や関係者に感謝した。主演の山崎さんは保育所の撮影などの印象から「子育てしやすい地域では」と感想を語った。伊勢崎市の主要施策ともなっている「子育て環境の充実」の指摘に、五十嵐市長は満足そうに頷いていた。

 伊勢崎市文化観光課の要請を受けて、市内で民間の撮影候補地探しに奔走したのは、「いせさきフィルムコミッション応援団」(五十嵐均団長)。主人公の山崎さんが忍び込む一般的な民家や豪邸、小野真千子さん演じる主人公の恋人が暮らすアパート(三光町)、うらぶれた文具店という設定の文具のシマ(東本町)など、いずれも数ヵ所を提案したという。文具店店主は滝藤賢一さんが演じている。市施設ではで第三保育所(昭和町)、いせさき聖苑(波志江町)などで撮影した。

 五十嵐市長も元上毛新聞記者で、横山さんとは旧知の仲。1987年発生の功明ちゃん誘拐殺人事件では、市長が群馬県警のキャップで、横山さんがサブキャップを務めた。「あの時、私の忠告を聞いていたら、今の横山さんはなかったかもしれない」と五十嵐市長が自虐的に明かしたのは、横山さんが作家になるために、あえて会社を辞めようという時「大変だから会社に残って作家を目指したら」というアドバイスだった。

 同映画は伊参スタジオ映画祭などでつくる「影踏み」製作委員会が製作。篠原監督が22年前に同スタジオで撮影した「月とキャベツ」で山崎さんを主演に起用した縁で、再びタッグを組んだ。(2019年6月5日)
【写真】昨年6月開催の定期演奏会で、合唱を披露するコール・ルーエ。1500人の会場(伊勢崎市文化会館)は毎回、立見が出るほど盛況

6月9日に「50曲コーラスマラソン」を5団体合同で初開催
幅広い楽曲を披露する混声合唱団のコール・ルーエが主催

 伊勢崎市を拠点に活動し、ポップスを中心に幅広いジャンルの演奏をこなす混声合唱団のコール・ルーエ(浜田樹団長)は、周辺で活動する他4団体と合同で、4時間に及ぶ「50曲コーラスマラソン」に挑戦する。伊勢崎市境総合文化センターを会場に、6月9日午後1時に開演する。合唱団同士のこうした大掛かりな合同演奏会は初めてという。

 参加するのは同合唱団関係団体のルーエ・クラブ合唱団(池田昌子団長、伊勢崎市)、凛(平田康子団長、伊勢崎市)、コール・マイン(島谷恵子団長、埼玉県深谷市)、リバーサイド・ソサエティー(林邦雄団長、前橋市)の4団体。コール・ルーエが新たな時代に向けた合唱団を模索する中で、よりオープンな活動に舵を切り、他団体に連携を呼びかけた。50曲はポップスの他、ジャズ、歌謡曲、フォークと幅広く選曲。このうちコール・ルーエが38曲、他は1団体あたり3〜4曲を担当する。

 同合唱団では例年6月、大規模改修中の伊勢崎市文化会館(来年3月リニューアルオープン)で定期演奏会を開催してきたが、今回はこれに代わる演奏会企画にもなっている。「50曲コーラスマラソン」は30年前、歌唱力向上を目的に無観客で既に単独実施。700曲を越えるレパートリーの蔵出しを兼ねて、随時行なっている10曲程度のミニコンサートは「マラソンコンサート」と銘打って開催している。

 合唱団の設立は1975年。2015年6月の創立40周年記念演奏会では、結成60周年のデューク・エイセスと3回目の共演を果たすなど、セミプロ並みの実力を誇っている。昨年の定期演奏会では伊勢崎市出身の作曲家で民謡研究の第一人者「町田佳聲生誕130周年記念」と銘打ち、「ちゃっきり節」「からりこ節」で斬新なアレンジを披露。幅広いレパートリーを編曲することができる団員の存在が、合唱団の強味となっている。

 団員は伊勢崎市内を中心に現在、27人(男性10人、女性17人)で構成。伊勢崎市波志江町の波志江ふるさと会館を会場に、毎月第1、第3、第5日曜日(午後1時〜5時まで)に練習している。他に特別練習も実施。入団希望者は準団員オーディション合格後に1年間基礎練習。正団員オーディション合格後に正式団員となる。入団や「50曲コーラスマラソン」の問い合わせはTEL:0270-63-0126(佐藤さん)かchorruhe1975@gmail.comへ。(2019年3月27日)
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