【カルチャー】市民一人ひとり、または各種団体の様々な文化活動を取り上げます。地域の歴史と伝統を守り、発展させる取り組みの紹介に力を注ぎます。情報はinfo@press-isesaki.com
会の役員が市に陳情(中央が臂市長、左が小倉共同代表)/1月12日の臂市長ブログより

30年前の建設構想再浮上へ「まちなか美術展」定期開催など機運醸成
「伊勢崎市に美術館を求める会」名称変更で本格始動(2024年12月10日)

 市民の豊かな感性と創造性を育み、地域に文化と賑わいをもたらす美術館。21万都市の伊勢崎市に欠けている施設は、30年前に建設構想が浮上したが立ち消えとなったまま。現状を憂いた市内芸術家有志が「伊勢崎市に美術館を求める会」(石原成徑・小倉進・河内世紀一共同代表 会員15人)を結成し、これまでの地道な活動からより対外的に積極的なアピール活動を始めた。13日から開催する定期的な「まちなか美術展」を皮切りに、行政や市民に美術館の必要性を訴えていく。

 会の結成は2016年、市内の日本画・洋画・書道作家ら有志26人が、市に市民ギャラリーを求める陳情書を提出したのがきっかけ。陳情署名、活動資金作りなどを目的に翌年「伊勢崎市に市民ギャラリーの建設を求める会」が発足した。第1回「市民G/UPチャリティー展」を開き、市長に1万658筆の署名を提出した。今年1月の市長面談でも市民ギャラリー建設を要望し、意見書を提出している。5月開催の「市民G/UP展」は6回目を数えた。

 作品展示のための「市民ギャラリー建設」から、さらに踏み込んだ「美術館建設」に名称変更したのは今年の6月。以後、会員が関連議題の市議会傍聴、美術館を想定した市内の景観散策を実施。13日から開催の「まちなか美術展」は来年10月まで隔月で定期開催し、12月はこれまでの「市民G/UP展」をさらに充実させた「ISESAKIの美術2025」を計画している。同年中に市長・市議へのアンケート実施や他自治体の美術館・市民ギャラリー視察も予定している。

 市は1994年に教育委員会主導による「美図館、郷土資料館の建設構想」に基づき2部会の委員会を設けて調査研究を行っている。その後構想は立ち消えとなり、市が所蔵する作品は現在「インターネット美術館」で公開している。富岡市出身で市とも関わりの深い洋画家、福沢一郎は74点、伊勢崎出身で日本画家の磯部早丘53点、金井烏洲36点、鋳金工芸家の森村酉三6点、郷土の作家を中心とした資料室に178点の計347点。これら市所蔵作品は一時期、民間倉庫に保管していたが、現在は市の施設で管理している。

 小倉共同代表は「レベルの高い芸術作品や市所蔵の地元作家の作品を日常的に目にし、触れることができる美術館が身近に存在することで、市民は子どもから大人まで豊かな感性や創造力を育むことが期待できる。地域に根付いた特色ある文化の情報発信拠点としての活用など、市民が誇れる美術館を求めていきたい」と美術館の必要性を訴える。今後は様々な活動を通して行政と市民の間にに美術館建設の機運を盛り上げていく。
大阪府道明寺天満宮の埴輪窯復元を紹介する講演中の橋本名誉教授

埴輪窯、土坑・工房跡が近接・同時発見「伊勢崎の「石山南遺跡・古墳群」
橋本名誉教授が既存遺構群の講演で保存・復元を呼び掛け(2024年8月7日)

 伊勢崎市下触町で、市が発掘調査していた埴輪生産遺構の埴輪窯跡、使用粘土を採取した土坑跡と工房跡が発見された「石山南遺跡・石山南古墳群」。同時に近接して見つかった事例は珍しく、6月30日に開かれた現地説明会には約500人が訪れた。その保存が今後の課題となるなか、「埴輪生産遺跡の保存・整備・活用」をテーマに7月28日、美原診療所内ホール(伊勢崎市大手町)で講演会が開かれた。

 公益財団法人相川考古館(伊勢崎市三光町 相川裕保館長)が主催し、文化財保存全国協議会が共催した。同協議会の代表委員も務める橋本博文新潟大学名誉教授が、2024年会報91号特集「生産遺構の保存と整備」の原稿を補筆・修正した資料に基づき講演した。馬渡埴輪製作遺跡(茨城県ひたちなか市)、小幡北山埴輪製作遺蹟(茨城県茨城町)、国指定史跡の本郷埴輪窯址(群馬県藤岡市)、桜山窯跡群(埼玉県東松山市)などの保存、復元状態を豊富な写真資料で解説した。見せ方や案内板の望ましいあり方なども指摘した。

 橋本名誉教授は石山南遺跡・古墳群について、さらに外側の広い範囲で埴輪や工房跡などがセットになっている可能性を指摘。「将来的には広範囲な保存、整備、活用を」と行政や関係者に呼び掛けた。橋本名誉教授の講演前に、相川館長が歴史遺産を残す行為についてミニ講演。個人、研究機関・地域、行政機関が一緒に考えるなど「何かしらの力(感情)を加えない限り、残すことは難しい」とそれぞれの自発的な行為を促した。

 埴輪生産遺構群が発見されたのは石山南古墳群を形成する6世紀初頭の「赤堀村107号墳」の南側。民間の倉庫建設と土地造成に伴い、今年の5月から発掘調査していた。トンネル状の「あな窯」跡が見つかったのは開発地の南東の角。粘土採掘抗は南端に3か所、工房的な建物跡は南端3棟、東側107号墳の周溝脇で1棟を確認した。市文化財保護課は、南側周辺一帯の窯跡や粘土採掘抗などの広がりを確認するため、今後も発掘調査を予定している。

「石山南遺跡・古墳群」現地説明会資料。上は(右1頁、左4頁)、下は(右3頁、左2頁)




23日のいせさき祭り民謡流しの酒宴舞「からりこ節」に向けて練習中の「まちだ連」有志

酒宴・座敷舞の「からりこ節」伝承に「まちだ連」結成
いせさき祭りの民謡流しやまちなか文化祭で往事再現(2023年9月20日)

 静岡県民謡「ちゃっきり節」(作詞北原白秋)で知られる、伊勢崎出身の作曲家・邦楽研究者の町田佳聲(本名・嘉章 1888−1981)。同時期に伊勢崎銘仙の機織り作業を軽やかなリズムに乗せて踊る伊勢崎民謡「からりこ節」も作曲している。昭和初期に酒宴席で踊ったお座敷・地唄舞は、いせさき祭りの民謡流しで大衆的な踊りとして毎年披露されているが、今年はこれまでほとんど目にすることがなかった、往事のおもてなし文化も再現。さらに10月28日、伊勢崎まちなか文化祭(10月28日〜11月12日)でも披露される。

 披露するのは民謡・舞踏・ダンスなどの8団体で6月に発足した「まちだ連」(会員約50人 梶山時子会長=殖蓮民謡会会長)の有志。民謡流しの「からりこ節」は行進しながらの踊りだが、当時は酒宴座敷で埃をたてないように、畳半畳の空間でも舞える振り付けだった。これまで披露する場が少なかったため、「本来の振り付けを後世に伝え、踊り継ぎ、郷土の偉人とこの伊勢崎民謡を多くの市民に知ってもらいたい」(梶山会長)と「まちだ連」を結成し練習を重ねてきた。

「♪わたしや伊勢崎 機場(はたば)の育ち チャッカリン チャッカリン♪」の囃子詞から「ちゃっかりん節」と称されたこともある。9月23日開催のいせさき祭りの民謡流しでは、本町通りを会場に午後5時から40分間、約150人が浴衣姿の4列横隊で踊る。3曲目のからりこ節で、黒留袖姿の最後尾十数人が本町通り中央付近で立ち止まり、座敷舞を披露する。大衆舞との対比も見どころのひとつ。10月28日の伊勢崎まちなか文化祭では、伊勢崎駅前南口広場で午前11時と午後1時から各45分間実演する。「まちだ連」では『伊勢崎おもてなし舞からりこ節』など、酒宴座敷舞に替わる呼称も検討している。

 織物買い付け業者をもてなす余興にと最盛期の1928年(昭和3年)、当時の伊勢崎甲種料理店組合が作詞を北原白秋、作曲を町田佳聲、振り付けを花柳徳次に依頼、完成させた。いわば伊勢崎の料亭文化を伝える伝統芸能になっている。翌年2月13日、伊勢崎の芸者衆による実演がNHKで全国生放送された。1976年の伊勢崎民謡民舞発表会、第16回国民文化祭・ぐんま2001、NHKの民謡公開音楽番組「それ行け!民謡うた祭り」、2017年の町田佳聲130周年事業などで披露されてきた。

 町田佳聲は三光町の醤油醸造業の町田家に生まれた。本町の伊勢崎郵便局南の交差点角に残る、むくり屋根の住宅が生家。東京美術学校図案化を卒業後、芸能記者、NHKの邦楽番組担当者を経て、長期の全国調査で「日本民謡集成」「日本民謡大観」全9巻を刊行している。2017年に生誕130周年事業が実行委員会方式で行われ、その有志が今年、「町田佳聲顕彰会」の発足準備を進めている。9月30日には東本町のつくし会館で第3回準備会を開く予定。「まちだ連」もこうした機運の中で結成された。
伊勢崎神社で紙芝居を上演する石原さん(左)。DVD上映の紙芝居の原画を手にする佐藤さん

伊勢崎空襲、ヒロシマ被爆者の悲惨さ伝える紙芝居一堂に/平和記念講演会
紙芝居繋がりで2人を臂市長が引き合わせ共演実現(2023年6月12日)

 紙芝居などで悲惨な伊勢崎空襲を語り継いでいる「伊勢崎空襲を語り継ぐ会」(佐藤好彦会長)を中心とした8月19日開催の平和記念講演に、今年は新たにヒロシマ被爆体験者の紙芝居が披露される。上演するのは伊勢崎市出身で茨城県土浦市を拠点に活動するほか、伊勢崎神社の境内で毎月、紙芝居を上演している「つちうら駄菓子屋楽校」校長の石原之壽(のことぶき)さん。2人は臂泰雄伊勢崎市長の引き合わせで共演が実現した。

 講演会タイトルは「紙芝居と絵本で伝える伊勢崎空襲と平和」。3部構成の第1部でDVD化した紙芝居「わたしたちが駆け抜けた青春 伊勢崎空襲の記憶」を上映する。伊勢崎高等女学校生徒と中島飛行機伊勢崎工場勤務の青年の目を通して空襲の惨禍を伝える。DVDは紙芝居の原画を担当した佐藤会長を中心に3年前に制作した。

 第2部の紙芝居「英(ひで)ちゃんと原爆」は、山口県岩国市の山田英子さんが10歳の時、疎開先の広島で被爆した体験を語り部として自らが作った紙芝居。紙芝居でまちおこしに取り組んでいた石原さんがこれを知り、山田さんの許諾を得て2年前に土浦市で企画、上演している。石原さんは伊勢崎の民話や伝説を基にした創作紙芝居を伊勢崎神社で定期的に上演。壽ちんどん宣伝社座長として、ちんどん屋も引き連れて来場者を楽しませている。

 第2部では伊勢崎空襲の被災者の証言を、郷土史家の故星野正明さんがまとめた紙芝居「星になった母」も上演する。紙芝居は殖蓮公民館で活動、作品を制作した「まんてん紙芝居の会」が、戦禍の恐ろしさをリアルに伝えるために2年前に作った旧版の約1.6倍(43cm×62cm)の拡大版を披露する。DVD紙芝居の朗読で協力した「読み語りの会はすの実」が、第3部で平和絵本の読み語りを行う。

 「伊勢崎空襲を語り継ぐ会」が主催する平和記念講演は2015年に始まり、コロナ禍の3年間を除いて続いていた。佐藤会長の紙芝居制作は今回の作品で3作目。こうした活動を知る臂市長が、石原さんの市長表敬訪問時に、紙芝居繋がりで佐藤会長にも声を掛け2人を引き合わせた。ごく自然に共演話が持ち上がり、石原さんの参加が実現した。

 平和記念講演会の主催は「まなびぃ先生自主企画事業」(登録者は佐藤好彦さん)。会場は伊勢崎市絣の郷 円形交流館。8月19日午前10時開演で、入場料無料、定員は100人。問い合わせは佐藤さん(090−8476−9430)へ。
舛田幸三が戦時下に背負った薬箱を前に語る,公益財団法人脳血管研究所の美原樹理事長。右が軍医だった初代博理事長(「50年史美原」から)

プロ棋士だった舛田幸三がポナペ島で衛生兵として担いだ薬箱
伊勢崎まちなか文化祭で企画展示 美原診療所(2022年10月28日)

 大山康晴名人と共に一時代を築いたプロ棋士の升田幸三(1918―1991)が、西太平洋ミクロネシア群島のポナぺ島(現ポンペイ島)で戦時中、衛生兵として担いでいた薬箱が、公益財団法人脳血管研究所 美原診療所(美原樹理事長 74歳 伊勢崎市大手町1−1)の待合室の一角に展示されている。「伊勢崎まちなか文化祭」(10月15日〜11月3日)の企画展示のひとつで、期間中の診療時間内であれば見学できる。

 薬箱は縦35センチ、横46・5センチ、高さ28・5センチの大きさで、簡易な手作り。表面はジャングル移動の際にも敵に見つかりにくいような迷彩を施した緑色。赤い赤十字マークで医療箱とわかる。美原樹理事長が自宅の蔵に収納されていたものを引っ越しの際に発見し、軍医として戦地に赴いた父、博初代理事長(1913−1981)の思い出にと「断捨離せず」に残していた。中にあったモルヒネなどの医薬品は既に廃棄処分している。

 博理事長が1942年(昭和17年)に軍医として赴任したポナペ島。終戦前年に一時的に米軍の襲来を受けたが、その後は米軍がサイパン島への集中攻撃に転じて玉砕を免れ、終戦を迎えた。最初の2年間はのどかな日々の島暮らしで、時には部下と碁を打ち将棋を指した。この中に衛生兵として従軍し、既にプロ棋士となっていた舛田幸三がいた。プロ相手当然の「飛車角落ちでも勝てなかった」と言う父の話を、樹理事長は少し愉快そうに語った。

 舛田幸三は帰還にあたり、伊勢崎の美原家まで博理事長の戦友として、薬箱を背負い同行している。同期会として「ポナペ会」が、毎年美原家で開かれ、樹理事長は父の膝に座り「楽しかった」という、戦友同士ののどかな島暮らしの日々の思い出話を聞いている。博理事長は1940年(昭和15年)に慶応義塾大学医学部を卒業した5月、海軍軍医中尉として志願し、サイパン島に赴く。その後通信長も兼務し、航海中に真珠湾攻撃の暗号文「ニイタカヤマノボレ1208」「トラトラトラ(ワレ奇襲に成功セリ)」を解読している。

 薬箱を展示している美原診療所は、医師で教育者、町会議員だった設楽天僕(1841−1883)が診療を始めた地。樹理事長が5代目となる。今年で2回目を迎える「伊勢崎まちなか文化祭」は、中心市街地の活性化を目的に、まちの歴史や産業、文化(史跡)を紹介するイベント。地域内の各店舗ではレトロで珍しい品々を展示し、市内各所で多彩なイベントを開いている。(2022年10月28日)
【写真】展示資料を解説する相川考古館の相川学芸員

伊勢崎藩主の秀でた被災対応記録を展示「相川考古館」
浅間山大噴火240年を語り継ぐ連携企画展(2022年8月15日)


 やんば天明泥流ミュージアム(長野原町)が31日まで開催中の「浅間山大噴火から240年『天明3年』を語り継ぐ」は、県内外17機関の連携企画。天明3年/1783年の浅間山大噴火から240回忌を機に、嬬恋村郷土資料館の呼びかけで始まった。同館では当時の犠牲者を慰霊した高僧・宥弁(ゆうべん)の仏像などの特別展を19日まで開催中。相川考古館(伊勢崎市三光町)は、当時の伊勢崎藩の災害対応を知る、所蔵資料企画展「‐天明浅間山大噴火‐伊勢崎藩の記録」を28日まで開いている。

 伊勢崎藩の被災対応がわかるのは、後に家老となる関重嶷(しげたか)が記した「沙降記」(新井廣胖写本 文化13年/1816年)で原本は不明。記録には泥流による甚大な被害、噴火翌日には重嶷自らが現場に赴き、被災者救助の陣頭指揮を執ったことなどが記されている。災害と飢饉で米価は高騰。各地に暴動が起こる中、当時家老だった父当義(まさよし)など藩士らの対処で藩内暴動を未然に防ぎ、この年の藩内租税も免除している。

 「慈悲太平記」(西宮新六記 力丸氏写本 天明5年/1785年)も災害対応を記し、藩主酒井駿河守の慈悲を伝えている。太平記ばりの名文だが、地名に誤謬が多いことも指摘されている。「乍恐以書付奉申上候事」(佐藤春信記 天明3年/1783年)は復旧工事や風俗取り締まりを訴える建白書。「浅間山大変実記」(大武義珍記 徳江万之輔写本 天保10年/1839年)にも伊勢崎領内の動静が一部記されている。

 展示4点資料中「『沙降記』は「関重嶷が家老になる前の準公的記録だが、他の資料と突き合わせても日にちの齟齬がなく資料的評価は高い」と相川裕保学芸員は研究者の話を紹介している。企画展初日の7月28日には朝一番で、臂泰雄伊勢崎市長が訪れている。連携企画として伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館(伊勢崎市西久保町)が、来年6月16日から8月27日まで「伊勢崎藩を救え!浅間山天明噴火(仮)」を予定している。(2022年8月15日)

【写真】「華竹庵文庫」で目録を手にする時平さん

境島村で幕末古民家の創作料理・そば店が資料室「華竹庵文庫」開設
地域の歴史文化知る、金井烏洲・研香作品他296点目録に(22年6月26日)

 世界文化遺産「田島弥平旧宅」に近い養蚕農家。幕末の南宋画家、金井烏洲の弟で画家の金井研香(けんこう1803-1879)の住居だった空き家を改装し、蕎麦と創作料理を提供している「高古 華竹庵」(伊勢崎市境島村2475−1 時平和子店主)が6月25日、開店5周年を記念し、家屋に保存されていた掛け軸など296点を目録にした資料室「華竹庵文庫」を開設した。

 資料を展示している「華竹庵文庫」は、店内の土間から続く3間の最奥。兄弟の父で俳人の萬戸(ばんこ)が、利根川中州に構えた書斎「華竹庵」を現在地に移築し、研香が幕末に新築の際に合築した。3間の和室は現在、イベントやサロンとして活用している。目録をまとるのに協力したのは、地元の境郷土史グループ。形式、書画別、作者、制作年号、内容を記している。

 目録の総点数は296点。内訳は「書籍」57点、「額・書・画」40点、「古文書」15点、「書簡」34点、「文具・什物類」19点。表装していない書画などの「まくり画」は77点と最も多く、「まくり書」も28点を数える。研香・烏洲作品の他、烏洲の4男で政官書家の之恭作品など、金井家一族の関連資料の他、幕末・明治の名のある画家・書家の作品も所蔵している。

 資料室の壁に展示しているのは研香の掛け軸「葡萄にリス」(写真右から2点目)。右端の掛け軸「老人と亀図」の作者は、田島弥平の弟で島村の漢学者、田島霞山。作品は傷めないように2週間程度で展示替えを予定している。見学は営業時間内(12時〜15時 18時以降は相談)で、食事の場合はその前後時間を含み、事前予約のみ受け付けている(電話0270−75−4957)。

 烏洲のまくり画、彩色「相州浦賀港詩危利亜出港図」などは、出来栄えの良さから今後優先して額装を検討したいという時平さん。「骨董品的には今の段階でそれぞれの評価は難しいが、養蚕で繁栄を極めた島村地区の歴史と生活を知る上で、これらは貴重な資料。まだ整理しつくしてない資料も残っており、郷土史グループの皆さんの協力を得て今後も順次目録に加えていきたい」と話している。
【写真】中央で感謝状を手にする星野貴さんと殖蓮史談会の会員

郷土史家の星野さん遺族が膨大な資料を寄贈
散逸防ぎ郷土資料活かす事例に 殖蓮史談会


 郷土史家の星野正明さん(1933年〜2020年)の遺族が、残された膨大な文献資料などをこのほど殖蓮史談会(重田泰嗣会長)に寄贈した。星野さんは同会の元会員で、会長を務めたこともあった。同会では遺族に感謝状を贈り「貴重な資料の散逸を防ぐためにもありがたい」(重田会長)とお礼を述べた。

 資料を寄贈したのは星野さんの二男の貴さん(下植木町 58歳)。残された郷土史関係資料や書籍類、執筆原稿などは、軽トラックで6台分に及んだ。同会では整理後に、その活用方法を検討し、今後の郷土史研究に活かしていく。重田会長は「故人が残した資料の価値がわからず困惑している他の遺族の方々にも、こうした対処方法があることを知ってもらうことも大切」と訴える。

 伊勢崎市本町生まれの星野さんは太田中学卒業後、経済事情で進学をあきらめ、家業の食料品販売に携わる。20歳の時に父の病死で店を引継ぎ、後の「タイヨーストア」を経営する。傍ら近隣の史跡をめぐり、独学で郷土史研究に勤しんだ。「早朝の市場の仕入れが終わると、後は母親任せでもう店にはいなかった」と、当時の父親の打ち込みぶりを貴さんが思い起こす。星野さんが小学4年生の時、研究資料として拾い集めた石ころ。自宅庭の雨降りのぬかるみ対策として、それらをばらまいた母を烈火のごとく怒った、というエピソードも貴さんは明かしてくれた。

 殖蓮公民館主催の講座開設をきっかけに2002年に発足した「まんてん紙芝居の会」。その活動などにも加わり、創作民話や紙芝居にも手を広げた。あまが池の埋め立て阻止運動や粕川沿いの前方後円墳「一ノ関古墳」などの史跡保存活動にも力を注いだ。著作は「郷土史と私」(2004年)、殖蓮公民館たよりに連載した「ENJOYウォーキング」(2008年)、「高山彦九郎『子安神社道の記』平成探訪記1〜12」(2012年)、「伊勢崎市の史跡散歩」(2013年)など。全て伊勢崎市図書館で所蔵している。
 1  2  3  4