ムーミンの原作者トーベ・ヤンソン(ムーミンについてのブログより)

ムーミンたちの平和な暮らし〜作者トーベ・ヤンソンの生活〜
地元翻訳家 星大吾翻訳 NYT芸術蘭記事/ニーナ・シーガル(2023 年10月4日付)

 VILLAGE/VANGUARDが全国で開催している期限限定ショップ「ムーミン谷の不思議な住民たち」が2月、スマーク伊勢崎でも開かれ賑わった。今も絶大な人気を誇る、そんなムーミンの作者トーベ・ヤンソンの生涯と生活を知る記事を紹介します。
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 スカンジナビアの作家・芸術家トーベ・ヤンソンが、最初の「ムーミン」の物語の草稿を書いていたのは、ヨーロッパが第二次世界大戦の危機に瀕していた頃であった。

 半ばで書きかけとなったその草稿は戦後まで忘れ去られていたが、1945年に『小さなトロールと大きな洪水』として出版され、後にフィンランド文学の古典となる9冊のムーミンシリーズの最初の作品となった。

 1954年にヤンソンがロンドンの新聞『イブニング・ニュース』で可愛いリトル・ミイ、天真爛漫なスノークのおじょうさん、思慮深いスナフキンといったムーミンのキャラクターを漫画にすると、彼らは世界的に有名になった。1990年代には、日本とオランダの共同制作によるムーミンのテレビアニメ番組と長編映画が制作され、新たなファンを増やした。

 今日、ムーミンはおそらくフィンランドで最も愛されている文化的輸出品であり、スウェーデン語で書かれたヤンソンの本は50カ国語以上に翻訳されている。

 しかし、フィンランドとスウェーデンの同性愛者のアーティスト、熱心な平和主義者、パートナーと年の半分を島で暮らしていたという作者自身についてはあまり知られていない。

 パリのエスパス・モン・ルイで9月29日に始まった展覧会「トーベ・ヤンソンの家」は、彼女の全作品と、その根底にあるユートピア思想により関心を集めることを目的としている。

 ムーミンのイラストや漫画に加え、ヤンソンの絵画やスケッチ、衣装やセットのデザインも展示されており、その多くは平和、寛容、調和への願いをユーモラスに表現している。

 また、ヤンソンの青春時代や、生涯のパートナーであったトゥーリッキ・ピエティラなどの家族関係、芸術を創作した場所などについても紹介している。

 パリのアート集団「コミュニティ」のメンバーであるトゥッカ・ローリラは、「彼女の作品に新たな視点をもたらし、現代的な視点で彼女の作品を探求する」ために、ヤンソンの遺族の協力のもと展覧会を企画した。

 ヤンソンの生涯の伝記的要素を理解すれば、「ムーミンの登場人物の多くが、彼女の周囲の人々や彼女の人生にインスピレーションを受けたものであることがわかります。どのキャラクターが誰を表しているのかを知れば、トーベの人生を読み解くことができるのです」

 シングーミーとボブ、秘密の言葉を話すドレスを着た二人の切っても切れない小さな生き物は、例えばトーベと彼女の初恋の人、ヴィヴィカ・バンドラーがモデルである。楽観的で問題解決型のトゥー・ティッキーは、ヤンソンの長年のパートナーであるピエティラに直接インスピレーションを受けた、とローリラは言う。フィンランドでは1970年代までこのような同性愛は犯罪とされていたが、ムーミンの世界ではそのような関係も見られる。

 本の中では、自然の中で暮らし、珍しい生き物と友情を育み、困難から学び、互いに助け合う方法を見つけることにも焦点が当てられている。

 ヤンソンの伝記を書いたストックホルム大学のボエル・ウェスティン教授(児童文学)は、ヤンソンは平和主義についての自分の考えを表現するために作品を書いたと述べている。

 「戦時中、彼女は日記に幸せな社会、もうひとつの世界を築きたいと書いていた。ムーミンの世界は、その夢のある種の実現、あるいは疑似体験として見ることができる」

 ヤンソン(2001年没)は、1914年にフィンランドのヘルシンキで生まれた。スウェーデン人の母、イラストレーター、シグネ・ハンマーシュテン・ヤンソンと、フィンランド系スウェーデン人の父、彫刻家ヴィクトール・ヤンソンは、美術を学んでいるときにパリで出会った。

 トーベはペンが握れるようになるとすぐに絵を描き始め、ストックホルムとパリで美術を学んだ。15歳のとき、スウェーデン語の政治風刺雑誌『Garm』に初めてイラストを描き、当時台頭していたファシストや共産主義運動を公然と批判した。

 彼女は1953年までこの雑誌で働き、ヒトラーやスターリンの風刺画など約100点の表紙イラストを描いた。この展覧会のもう一人の共同企画者であるシニ・リンネ=カントは、「これは間違いなく危険なことでした」と言う。第二次世界大戦中、フィンランドはドイツ帝国と同盟を結んでいたからだ。

 1944年以降、ヤンソンは1年の半分をヘルシンキのアトリエで過ごし、春が来ると、残りの半年を生涯のパートナーであるピエティラとフィンランド群島のクロフハルン島と呼ばれる小さな島で暮らした。島には一軒しか家がなく(彼女たちの家だ)、電気も水道もなく彼女たちはすべての物資をボートで運んだ。

 「彼女たちの島の小さな家には一部屋しかありませんでした。」トーベの姪で、この島を訪れて育ったソフィア・ヤンソンは言う。「家の隣にはテントもあり、彼女たちは風の音や海の音を聞くのが好きだったので、よくそこで寝ていました」

 島に住む理由はもうひとつあった。それは、フィンランドでは同性愛者であることを理由に逮捕されたり、法的処罰を受けたりする可能性があったが、クロフハルン島では堂々と一緒に暮らすことができたからだ。年をとり、ヤンソンが海を怖がるようになるまで、彼女らは30年間そこで過ごした。

 しかし、完全に孤立していたわけではなかったとソフィアは言う。夫妻は定期的に家族や友人を迎えていた。ムーミンたちが血縁者も見知らぬ人ももてなすのと同じように。

 「お客さんが来ると、お客さんは家で寝て、トーベとトゥーリッキはテントで寝ました」とソフィアは言う。「ムーミンの世界では、ドアはいつも開いているのです」

 この安全な家を作るという考えは、ヤンソンの作品の中心的なものだったとウェスティン教授は言う。ヤンソンは著作の中で、「家は安心できる場所であり、楽しく過ごせる場所である」と言っている。「しかし同時に、家は時に災害に脅かされる、だから、私たちは家を守るために戦わなければならない」

 ムーミンの登場人物たちの状況は、ヤンソンの現実を反映している、とソフィアは言う。ムーミントロールとムーミンママが、いなくなったムーミンパパを探しに行く最初の本からそうだった。

 「彼女の知り合いはみんな誰かを亡くしていました。これは決して大げさに言っているのではありません」とソフィアは言う。「多くの男性が戦線で亡くなり、多くの父親が行方不明になっていました。誰もが転々とし、難民という問題を多くの者が考えていました」

 リンネ=カントは、ヤンソンの作品のテーマの多く、特に自然災害、気候のもたらす災害、難民の苦境は、現代の読者の共感を得ていると語った。

 「ヤンソンは、私たちが今経験していることを描いているのです。彼女がこういった作品を書いていたのは80年前なのですから驚くほかありません」
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。