原爆の父描いた映画『オッペンハイマー』の日本人の反応
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年4月1日付)
映画「オッペンハイマー」のパンフレット(表紙)

原爆の父描いた映画『オッペンハイマー』の日本人の反応
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年4月1日付)

【モトコ・リッチ支局長/キウコ・ノトヤ記者】 

 金曜日(3月29日)に日本で公開された、原爆の父を描いたアカデミー賞受賞の伝記映画『オッペンハイマー』を観た奥野佳子さんは、科学者たちが広島上空での爆発を雷鳴のような足踏みとアメリカ国旗を振り祝うシーンに唖然とした。
 広島で育ち、平和・環境活動家として活動してきた保育士の奥野さん(22歳)は、彼らの歓喜に満ちた顔を見て「本当にショックを受けました」と語った。
 クリストファー・ノーラン監督の映画がアメリカで興行的に大ヒットしてから8ヵ月後、『オッペンハイマー』は日本の観客に、日本の歴史上最も痛ましい出来事に対するアメリカ側からの視点を突きつけている。
 この映画は、アメリカが核時代の幕開けの一撃となる日本への投下前の、J・ロバート・オッペンハイマーと彼のチームの歴史的な発明を描いている。先月、アカデミー賞で作品賞を含む7部門を受賞した。
 土曜日に東京でこの映画を観た奥野さんは、広島や長崎の何十万人もの原爆被害者の体験が反映されていないことを嘆いた。
 「核爆弾の影響について正しく理解されないまま、この映画が世に出るのは恐ろしいことです」と彼女は言った。映画の後半でオッペンハイマーが表明する後悔については、「もし彼が本当に世界を破壊しかねない技術を生み出したと思っていたのなら、もっと何かしてほしかった 」と彼女は言った。

 この映画を公開した日本のインディーズ配給会社であるビターズ・エンドは、12月の声明で、『オッペンハイマー』を劇場公開することを決定したのは、"多くの議論と検討 "の結果であり、その理由は、「この映画が扱っている題材は、私たち日本人にとって非常に重要であり、特別な意義がある 」からだと述べている。
 この映画が日本で公開される前、ネット上の流行語 「Barbenheimer」で、『オッペンハイマー』と映画『バービー』の画像を合成させ、原爆を軽んじるかのようなアメリカのファンに、強い批判が寄せられた。
 日本では、原爆の被害を想起させるようなシーンがあるとして、警告を表示している映画館もある。
 全国343館で公開されたこの映画は、初日から3日間で3億7930万円の興行収入を記録し、2024年の外国映画としてはこれまでで最高の興行収入を記録した。
 一部のコメンテーターは、先の論争にもかかわらず、この映画が日本で上映されたことを高く評価している。日本最大の日刊紙、読売新聞の論説委員である恩田泰子氏は、「観ること、考えること、議論することを不可能にするような社会を作ってはならない」と書いた。「映画を見る目を狭めてはならない」

 被爆者を含む一部の人々は、広島や長崎のシーンを排除したことに抗議しているが、東京大学の矢口雄人教授(アメリカ研究)は、『オッペンハイマー』は、核実験に使用された土地を持つネイティブ・アメリカンなど、多くの人々を物語から排除してきたこれまでの視点を反映しているに過ぎないと述べている。
 この映画は、「特権を謳歌し、政治的権力を求める、ごく一部の白人男性科学者たちを称賛している」と矢口氏は電子メールで書いた。「私たちは、なぜこのような白人男性の一方的な物語が米国で注目され、賞賛され続けているのか、そしてこの物語が米国(そして他の地域)における現在の政治と過去の政治について何を語っているのか、もっと注目すべきである」

 週末に映画を見た観客の中には、この映画には別の物語があることを認識したと言う者もいた。
日本で2番目に大きな都市である横浜で夫と映画を見た丹野多恵さん(50)は、自らと仲間の科学者たちが産み出した壊滅的な被害を把握し始めたオッペンハイマーの憤慨に注目したという。
 「ああ、彼はこのように感じていたんだ、自責の念を抱いていたんだ、と思いました」と丹野さんは言った。
 上智大学(東京)でアメリカ政治・行政を教える前島和宏教授は、「このような道徳的良心の描写は、アメリカ人の国民感情の変化を反映しているのかもしれない」と語った。
「数十年前なら、原爆投下に関わった者が感じていた罪悪感を描いた映画は、原爆が日本本土へのリスクの高い侵略を回避し、何千人もの米兵の命を救ったという物語が当然のものとされていたアメリカでは不評だっただろう」と前島氏は言う。
 例えば1995年、ワシントンのスミソニアン博物館は、広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの機体の一部を展示する展示を大幅に削減した。退役軍人の団体や一部の議員は、原爆投下に対するアメリカの正義を疑わせるような資料の一部に反対した。
 「30年前、人々は原爆投下の正義を疑っていなかった。今は、より複雑な見方になっているように感じる」

日本では、第二次世界大戦の終結から80年近くが経ち、バラク・オバマが現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪れてから8年が経った今、観客も犠牲者に焦点を当てない映画を見ることに前向きになっているのかもしれない。
 広島出身の三好加奈さん(30)の祖母は原爆投下当時7歳で、父と兄弟を原爆で亡くしている。三好さんは、土曜日に広島で両親と映画を観た。
 他の観客と同様、三好さんも原爆投下後の祝賀シーンに衝撃を受けたが、非難すべきではないと語った。「これは現実であり、変えることはできません」。三好さんの祖母を3年前に83歳で亡くなっている。

 多くの日本人は核軍縮を支持しており、自国の核兵器を持たない日本は、いわゆる米国の「核の傘」の下に守られている。北朝鮮が核兵器を強化し、ロシアがウクライナで戦術核兵器を使用すると威嚇する中、専門家たちは、『オッペンハイマー』は、核抑止力についての議論を刺激するかもしれないと語った。米国では世界的な同盟関係への取り組みを大きく変える可能性のある選挙が近づいている。
 東アジアの安全保障を専門とするダートマス大学のジェニファー・リンド准教授は、「核兵器に対する日本の立場は、多くのものに向き合わなければならない。この映画は、『私たちの国策とは何か』を考える上で、とても魅力的な時期に公開された」と語る。

 日本の平和活動家もまた、『オッペンハイマー』が議論になると考えている。
 「普段、日本では核兵器問題は広島・長崎の話として教えられています」と、社会貢献活動を目的としたクルーズを運航する日本の非営利団体、ピースボートの実行委員を務める川崎哲氏は語る。
科学者たちが人工知能や、政府によって悪用される可能性のある破壊的な技術を開発する中、川崎氏は『オッペンハイマー』がその潜在的な危険に警告を発していると語った。
 「科学者は、あらゆる権力の前では非常に弱い。個人では、そのようなものに立ち向かえるほど強くはなれません」

【翻訳】星大吾(ほしだいご):伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

銘仙デザインコンテスト、多文化フェスタなど多彩に20周年事業
臂伊勢崎市長に聞く‐2024【2】(2024年4月5日)
インタビューを受ける臂市長

銘仙デザインコンテスト、多文化フェスタなど多彩に20周年事業
臂伊勢崎市長に聞く‐2024【2】(2024年4月5日)

 来年1月1日に新市誕生20周年を迎える伊勢崎市は、多彩な記念事業を計画している。臂市長は、こうした事業を通して、提唱している共生社会の実現も目指している。主だった記念事業の企画意図や概要を聞いた。

― 大正から昭和初期に全国生産量の半分を占めるなど、黄金期を経た伊勢崎銘仙の生産は、環境の著しい変化で終焉を迎えていますが、その存在は今なお市や市民にとって大きな誇りとなっています。「ISESAKI MEISEN Design Award」の狙いは。

 臂市長 伊勢崎銘仙が受け継いできた「染織(色彩・織物)の技術」と「趣向を凝らしたテキスタイル」の新たな可能性を見出すためのコンテストを通して、さらに斬新な色彩とデザインを次世代に継承していきたい。具体的には決まっていないが、優勝賞品は応募のデザインされた布製品を検討している。当然その場では無理なので来年のコンテスト時に用意するなど、継続的に連続性をもって実施できればと考えている。メガネのイタガキ文化ホール伊勢崎(市文化会館)で12月開催を予定している。

― 本庄市、深谷市の3市連携利根川花火大会には昨年初めて実施した有料観覧席は。

 臂市長 市ラグビー場周辺河川敷を打上場所に8月31日(荒天時は9月1日)に実施する。観覧場所は利根川水辺プラザ公園や島村蚕のふるさと公園などを予定している。
昨年初実施の有料観覧席は2人席・4人席・6人席を用意したが、6人席が売れ残った。駐車場付きでなかったことも影響していたのでは。こうしたノウハウは蓄積していきたいが、3市の連携事業ではさまざまな調整もあり、今のところ考えていない。

― コンピューターゲームをスポーツゲーム化したeスポーツは、県をはじめ各自治体でも産業振興や地域活性化に取り入れ始めています。市が計画しているイベントや企画の狙いは。

 臂市長 メガネのイタガキ文化ホール伊勢崎(市文化会館)で、来年2月に大会を予定している。また市内各所で年6回、体験会も開催する。このほかクラフト系ゲームによるデジタルまちづくりコンテストも実施する。運営に際してはeスポーツに関係する企業が市内にあれば、産業振興として地元企業育成につなげたい。市内各施設に若者から高齢者まで幅広い層が集い、楽しんでもらうことで、観光資源としても活用していきたい。

― 「ドリーム・サッカー」の具体的な開催内容は。

 臂市長 本市の選抜サッカーチームが、サッカー元日本代表のドリームチームと親善試合を行うほか、サッカー教室も開く。自治総合センターが実施する宝くじスポーツフェア開催事業を活用するため、観戦は無料招待。市の陸上競技場で来年3月に開催する。

― 市民、各種団体、企業などを対象に、企画事業の経費を一部補助する制度はこれまでにありましたが、20周年事業の「官民連携事業支援補助金」は。

 臂市長 全市的に取り組む大きなイベントから、伝統文化や芸能といった地域に根差した小さな活動まで、幅広い応援が今回の事業の特長だ。コロナ禍でお祭り、山車・屋台、芸能といった地域に伝わる伝統的な活動が失われつつあるとの声もあり、伝統活動の復活、伝承に活用してほしい。
事業は「市を元気に」(50万円を5件程度)、「地域を元気に」(20万円を10件程度)、「地域文化・芸術を守る」(10万円を55件程度)の3区分で、補助金(補助率は事業費の3分の2)を交付する。

― 多文化共生フェスタやスポーツ交流イベントについては。

 臂市長 日本語教室や外国人向け生活オリエンテーション、多文化理解講座、災害時外国人支援ボランティア研修会などを継続的に開いており、日常的に交流を深め、共生社会に向けた環境づくりに努めている。昨年初めて開催した多文化共生フェスタでは、各国のダンスや伝統衣装の披露、さらに食文化に触れるなど、多くの交流機会を得ることができたと思う。今年は20周年事業として、これまで未参加の団体などにも参加してもらえるよう広く呼び掛けていき、11月に伊勢崎市民プラザで開催する。
交流を深めるには食とスポーツの2つの要素は欠かせない。そこで今年はスポーツ教室も開催する。日本人のクラブチームのような形態は少ないようなので、企業を巻き込んで企業内スポーツチームなどの参加も促していく。これらフェスタやスポーツ交流イベントを通して、多文化共生社会の実現に向けたまちづくりに取り組んでいきたい。

【取材メモ】20周年事業以外で保健所政令市への取り組みも聞いた。調整・詳細を詰めている段階として具体的な話は出なかったが、「自分としては間違いなく、絶対に(自前の保健所は)あった方がいい」と、訴えるように漏れた言葉が印象に残った。
国政の自民党の政治資金パーティー問題には「国政でやるべき政治活動はしっかりやっていただいていると思うが、選挙となると特に地方では、後援会づくりをはじめとして人手も必要になる」と政治資金パーティーには理解を示した。ただ「収支は出せるように」と付け加えた。(終わり)
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防災対策や新市誕生20周年に注力 伊勢崎市の新年度事業
臂伊勢崎市長に聞く‐2024【1】(2024年3月29日)
能登半島地震の被災地で救助活動や土砂倒木除去を行った伊勢崎市消防本部隊員たち

防災対策や新市誕生20周年に注力 伊勢崎市の新年度事業
臂伊勢崎市長に聞く‐2024【1】(2024年3月29日)

 伊勢崎市は2024年度予算を「防災と共生による未来に続く地方都市」実現予算と謳っている。正月早々の能登半島地震は災害の恐ろしさを改めて浮き彫りにした。一方、来年1月1日には旧市と赤堀・東・境の市町村合併から20周年を迎える。県内一人口の多い外国人居住者や旧町村市民との一体感の醸成を、共生社会の実現でより確かなものにする節目の年にもなりそうだ。臂泰雄市長に防災と20周年・共生社会実現を中心に聞いた。

― 能登半島地震発生では甚大な被害が明らかになる中、市の被災地支援も多岐にわたりました。

 臂市長 地震の揺れを感じたのは、駅伝の応援を終えて自宅で年始客と話をしている最中だった。すぐ外に出て周囲も確認したが、市内ではさほど大きな被害はないとみて、被災地支援でできることを考えた。県からの要請を受けて緊急消防援助隊や伊勢崎市民病院の災害派遣医療チームDMATの出動があり、庁内では安心安全課を中心に情報収集、さまざまな要請に対応した。新潟県長岡市寺泊の高台にある伊勢崎市臨海学校からは当日、市の教育委員会経由で津波災害の避難民を受け入れるための緊急開所連絡が入った。

 ※編集部注 伊勢崎市消防本部は1日〜11日まで、一隊平均15人で4次隊、延べ59人を派遣。石川県輪島市内を中心に、倒壊した建物などで人命救助にあたった。伊勢崎市民病院のDMATは、1月4日〜7日まで医師1人、看護師2人、業務調整員2人計5名編成のチームが、石川県七尾市の能登総合病院で被災者のスクリーニングなどに従事した。上下水道局は1月30日〜3月19日まで3回に分けて職員延べ20人を派遣し、石川県輪島市で給水車による応急給水。安心安全課は石川県かほく市で住居被害認定調査。市社会福祉課で受け付けた義援金・救援金は8,879,490円(3月21日現在)。


救急稼働
被災地で応急給水に派遣された給水車と救急活動に派遣された市民病院のDMAT


― 伊勢崎市内では2014年2月の大雪、2019年10月に台風災害に見舞われています。市が新たに講じてきた災害対策は。

 臂市長 大雪災害以降は、いせさき情報メールに気象注意報・警報などで発令と同時に自動で登録者に送信する機能を追加している。さらに、いせさき情報メールと各種SNS(X、Facebook)を連動させるなど、システムのバージョンアップを図ってきた。
台風災害を教訓に避難所職員の増員、防災倉庫にある備蓄品の一部を避難所に分散配布なども行っている。避難所運営マニュアルは水災と震災の対応を分けるなど見直しを図った。

― 能登半島地震などから得られた、今後の防災対策などは。

 臂市長 能登半島地震では、災害関連死の方が少なくなかった。避難所での生活が難しい高齢者や障害者への支援は、十分な配慮が必要と再認識した。障害者に対応した施設はほとんどない中、こうした方々は体育館などでは避難所暮らしが困難で、保護者も連れて行きにくい状況。中には普段通い慣れているデーサービスに行く、という話も聞いている。当事者や保護者の皆さまの声をよく伺いながら、指定避難所に加えて特別養護老人ホームなど、民間のしっかりした福祉施設などとの協力協定締結も進めていきたい。

― その指定避難場所ですが、小学校の体育館空調設備の新設などが予定されています。

 臂市長 避難所の整備として重点的に取り組んでいく。2024年度は北・南・茂呂・三郷・宮郷・名和・豊受・北第2・広瀬・坂東・宮郷第2・境剛志・境東の13小学校で新設し、翌年度に残りの小学校を実施する。中学校は四ツ葉学園を含む全12校が既に工事を発注し、今夏には利用できる見通しだ。アイオーしんきん伊勢崎アリーナ(伊勢崎市民体育館)も新設する。また設備の更新は市図書館や障害者センター、殖蓮・赤堀・境東・境島村の4公民館を計画している。


― 災害時の情報発信の充実はどのように図っていますか。

 臂市長 総合防災マップは市のホームページでも公開しているが、新たにスマートフォーン向けWEB版を新年度中に作成、提供したい。災害時に現在地から近い避難所、周囲の河川のその時点の水位がわかるなど、災害に的確に対処できる情報を素早く、手軽に入手できるようにしていく。

 スマートフォーンを持たず、テレビ、ネット環境がない市民には、いせさきFMの割り込み放送の仕組みを利用し、災害発生時の市からの災害情報を速やかに届けたい。Jアラート(全国瞬時警報システム)の緊急地震速報や弾道ミサイル情報を受け、スイッチを切っていても自動でラジオが起動、災害情報を受信できる、FM自動起動ラジオの無償貸与を予算化した。避難行動要支援者名簿登録者を中心に2000台分を確保した。
 
 群馬県内で外国人居住者の多い伊勢崎市では、外国人に対しての情報発信も極めて重要だ。既存の総合防災マップに加えて、英語・スペイン語・ポルトガル語・ベトナム語の4言語版を新たに作製し、関係各所に配布していく。

防災マップ
河川別浸水想定区域がわかる総合防災マップと4か国語の総合防災マップ

― 市民の防災意識を高めるための今後の取り組みは。

 臂市長 総合防災マップの解説動画を既にホームページに掲載している他、出前講座、災害図上訓練、避難所運営ゲームなどの開催で関心を高める取り組みを行ってきた。いせさき情報メール、SNSなどを通して引き続き防災意識の向上に努めていきたい。

 能登半島地震は昨年に続いて起きている。地震は時や地域を選ばず発生する、ということを前提に取り組む必要性を強く感じた。耐震などのハード面の整備とともに、高齢者などの社会的弱者をどのように助けるのかなど、日頃から近隣とのコミュニティーの重要性を訴えていきたい。(次回に続く)
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ようこそ日本へ、ここでは悪いニュースが良いニュースとなる
ニューヨークタイムズ アジア・太平洋欄記事(2024年2月29日付)
国民の政治不信を招いている自民党の裏金疑惑(イメージ写真)

ようこそ日本へ、ここでは悪いニュースが良いニュースとなる
ニューヨークタイムズ アジア・太平洋欄記事(2024年2月29日付)

【モトコ・リッチ東京支局長、上乃久子記者、キウコ・ノトヤ記者】

 経済は数十年間ほとんど成長せず、現在は不況に陥っている。人口は減少の一途をたどり、昨年の出生数は頭打ちとなった。この国の政治は、スキャンダルにまみれ不人気になっても、ひとつの政党が政権を事実上掌握し、あたかも硬直しているかのようだ。
しかし、心配はいらない。ここは日本、悪いニュースはすべて他人事だ。
見渡してみるとよい。日本と同じような傾向の国で一般に予想されるような、ゴミの山や道路の穴、抗議行動などの社会的不和の兆候がほとんど見られない。この国は驚くほど安定し、団結している。
その平静さは、波風を立てない精神を反映している。「しょうがない」は全国民の口癖のようなものだ。

 人々が無関心になるのも無理はない。失業率は低く、電車は定刻通りに運行し、毎年春には桜が咲く。神社や商店街には観光客が殺到し、株式市場は史上最高値を更新している。多少のインフレがあっても、ラーメンは一杯700円、定食は1200円程度で食べられる。東京でも住宅は一般的に手頃で、誰もが国民健康保険に加入している。犯罪も少ない。2022年に日本全国で発生した銃による殺傷事件はわずか3件だった。たとえレストランで携帯電話を忘れても、戻ってきたら誰にも盗られずそこにある可能性が高い。
 先週、東京西部の調布で妹と映画館から出てきたクラシック音楽の打楽器奏者、辻本千尋さん(26)は、「自分の生活環境にはかなり満足しています」と語った。日本人は、「自分の人生が充実していて順調である限り、あきらめて、むしろ幸せだと感じている」と彼は言った。
「日本は平和なのだと思います」と彼は付け加えた。 「つまり、若い世代はこの国を変える必要があるとは感じていないのです」
 戦争や社会的問題に悩まされる外の世界との比較によっても、その精神は強まっている。
東京西部の世田谷でトイレットペーパーを買いに出かけていた化学メーカー勤務の三輪久さん(65)は、「アメリカやヨーロッパに出張することが多いのですが、移民や犯罪率の高さ、暴動などさまざまな問題を抱える他の国に比べて、日本の社会やシステムはとても安定していると感じます」と語った。
 しかし、日本の平穏な表面の下には、多くの根深い問題が残っている。国連が毎年発表している報告書によれば、激しい労働環境と社会的プレッシャーを抱える日本は、先進国の中で最も不幸な国のひとつであり、高い自殺率が大きな問題となっている。男女不平等は根深く、改革が遅れており、ひとり親世帯の貧困率は富裕国の中で最も高い。農村部は急速に空洞化し、高齢化によって年金や介護の負担はますます増えるだろう。

 来年、日本では5人に1人近くが75歳以上の高齢者となる。この現象により、移民の受け入れと共存に苦労している日本では、労働力不足がますます露呈することになるだろう。すでに、日本で最も重要な施設のいくつかで、サービス格差が生まれつつある。
 「手紙が届くまでに4、5日かかります」と慶応義塾大学政策経営学教授の白井さゆりさんは、日本の郵便事業について言及した。かつては投函後1日で確実に配達されていたのだ。
ケーブルテレビやその他の公共サービスに問題があるとき、彼女は「電話で質問したいこともあるけれど、電話関連のサービスはもうない」と言う。
 「人がいないのがよくわかります」と白井さんは言う。 「もはやサービスの質はそれほど良くありません」
 しかし、このような不便さは、差し迫った社会崩壊の兆候というよりは、むしろ単に煩わしさを感じるだけである。第二次世界大戦後の数十年間、日本が急速に豊かになった後、日本の衰退は緩やかで、ある意味ではほとんど感じられない。
経済規模は、今月ドイツを下回ったものの、現在世界第4位である。景気は上下に振れるが、世界で最も高い国債発行率をほぼ乗り越えてきた。人口は毎年約0.5%ずつ減少しているが、東京は依然として世界で最も人口の多い都市であり、流行のドーナツを買うために1時間待ちの行列ができ、一流レストランの予約は何週間も前にしなければならない。首相はたびたび変わるが、いずれにしても現状維持のための取り替え可能な代表である。
 「私たちに何が近づいているかは誰もがなんとなく知っていると思いますが、そのスピードは非常に遅いため、何らかの方法での大きな変化を提唱するのは非常に困難です」と東京の早稲田大学政治学教授、中林美恵子さんは言う。
 日本には変革が必要だと考えている人々でさえ、先鋭化せず諦めてしまっている。
 「日本人はもう少し賢いと思っていたが、かつて一流と言われた経済も今や二流・三流、政府もおそらく四流・五流ともいえないだろう」と、先週横浜駅近くを歩いていた元ホテル従業員の渕別府さん(76)は言った。
 子供たちや孫たち、そして彼らを待ち受ける未来に申し訳ない気持ちでいっぱいだという。
 「結局のところ、民主主義だ」と彼は言った。 「つまり、政府のレベルは国民のレベルを反映しているのだと思う」

 その政権は、戦後ほとんどずっと自由民主党が主導してきた。
ある新聞社の世論調査によれば、党の不支持率は1947年以来最も高い。笹川平和財団(東京)の渡辺恒雄上席研究員は、「国民が自民党に不満を抱いたとしても、結局は自分たちが生きていける限り、そして日常生活がそれほど悪くない限り、あまり気にしない」と言う。「だから自民党政権は非常に安定しているのです」

 現在の不支持率は、日本のメディアを賑わせたものの、一般の人々には難解すぎて詳細が分からない金融スキャンダルに対する国民の苛立ちを反映している。
昨年秋の終わりごろから、自民党内のいくつかの派閥が、政治資金パーティーのチケット販売代金の全額を記録していなかったという疑惑が浮上し始めた。場合によっては、国会議員がその売り上げの一部からキックバックを受け取っていたようで、検察は3人の議員を政治資金規正法違反で起訴した。
 しかし、政治家の巨額な汚職行為が非難される他国とは異なり、日本のメディアは選挙運動中の贈答品や会食についての比較的地味な証拠を掘り起こしている。一部のニュース報道では、ある議員が政治資金を使って書籍を購入した可能性があり、その中には自身が執筆した書籍数千部も含まれていたという。
 野党が混乱する中、自民党はまたしても数々の政治目標を達成しそうだ。理由のひとつは 有権者の関心が低いからだ。

 「市長が誰なのか知らないし、ニュースもあまりチェックしないんです」と打楽器奏者の辻本さんは言う。「動物園で新しい動物の赤ちゃんが生まれたときとか、そういうときだけネットニュースを見るんです」

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

トイレが主役になった映画「パーフェクトデイズ」
ニューヨークタイムズ 映画欄記事(2024年2月3日付)
映画の舞台となったトイレの「TOKYOTOIRETプロジェクト」の紹介チラシ

トイレが主役になった映画「パーフェクトデイズ」
ニューヨークタイムズ 映画欄記事(2024年2月3日付)

【モトコ・リッチ東京支局長】

 公衆トイレが心を揺さぶり芸術的なインスピレーションが得られるということは通常ありえない。
 そしてまた、東京の銭湯にあるようなトイレというのは世界でも稀である。
だからこそ、『パリ、テキサス』や『欲望の翼』のようなアート系の人気作を手がけたドイツ人映画監督ヴィム・ヴェンダースは、2022年の春に初めて日本の首都周辺の公衆トイレを十数か所見学したとき、安藤忠雄、坂茂、隈研吾らプリツカー賞受賞者がデザインした「小さな宝石」と形容されるものに魅了された。これらのスタイリッシュな便器は、アカデミー賞の国際長編部門にノミネートされ、2月7日にアメリカで公開される彼の最新作『パーフェクトデイズ』の着想に火をつけることこととなった。

 この映画は、謎めいた過去を持つ公衆トイレの清掃員が、質素な生活を送りながら職人のように丁寧に働く姿を描いた切ない人間ドラマであるが、実はある種の宣伝活動がきっかけであった。ヴェンダース監督は、日本の著名な実業家のゲストとして日本に招かれたのだが、その実業家はヴェンダース監督に、日本の芸術性と衛生技術のショーケースとして考案されたトイレを題材にした短編映画シリーズを撮ってほしいと考えていたのだ
 ファーストリテイリング(ユニクロで知られる衣料品大手)の創業者の息子であり、同社の上級執行役員である柳井康治氏は、「日本の誇り」を建築によって表現する公衆トイレ・プロジェクトの陣頭指揮を執っていた。
「日本のトイレが世界一だと言っても、誰も異論はないでしょう」と柳井氏は昨年末のインタビューで語っている。柳井氏は、公共施設を芸術と同じように公益的なものとするため、独特の美的感覚を持つ建築家を採用したのである。

 当初は2020年に予定されていた夏季オリンピックのために世界を歓迎するために建設されたものだったが、パンデミックによって大会が2021年に延期され、無観客で開催されたため、計画はその機会を得られなかった。
 オリンピック・デビューが失敗に終わった後、柳井氏は別のプロモーションの道を模索していた。日本最大の広告会社である電通のクリエイティブ・ディレクターで脚本家の高崎卓馬氏に連絡を取り、トイレを国際的にアピールする計画を練った。
 高崎氏は、クエンティン・タランティーノやマーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグといった映画監督を起用することを提案した。大学時代に『パリ、テキサス』を見て以来のファンである柳井氏は、ヴェンダース監督が日本に強い関心を持っており、日本の偉大な監督である小津安二郎へのオマージュであり映像日記であるドキュメンタリー『東京画』を制作していたことを思い出した。

 招待状が届いたときは、パンデミックの真っ最中で、ヴェンダース監督は8年ぶりに訪れた日本にある種の郷愁を感じていた。昨年秋、ヴェンダース監督が審査委員長を務めていた東京国際映画祭の会期中、むき出しの会議室で、スタッフが彼の前に並べたチョコレートの包み紙を剥がしながら、「東京はいつも不思議と落ち着くんだ」と言っていた。
 ベルリン出身のヴェンダース監督は、パンデミック(世界的大流行)の際に、住民が自宅近くの公園を荒らしたことから、市民の心の荒廃に落胆した。東京、とりわけデザイナーズ・トイレに、彼は清潔さや地域社会の協力といった純粋な精神の体現を見たのだ。
 「これほど細部にまで気を配ったトイレは、世界中どこを探しても見たことがない」とヴェンダース監督は言った。彼はこの清掃員の働き(一般的な公衆トイレの清掃が1日1回であるのに対し、柳井氏は清掃員に資金を提供し、毎日2〜3回、建築トイレの手入れをさせている)を市民の精神の賜物と捉えた。

 東京を離れる前、ヴェンダース監督はトイレ清掃員を主人公にした長編映画を撮りたいと考えていた。柳井氏は、1996年の恋愛ドラマ「シャル・ウィ・ダンス?」で主演を務めて以来、国際的な人気を博した日本で最も有名な俳優の一人、役所広司氏を推薦していた。
 物語を作り始めるにあたって、ヴェンダース監督は主人公がどこに住むかを知る必要があると感じた。ヴェンダース監督は東京取材旅行の最後の数日間をロケ地巡りに費やした。彼は、スカイツリーの影に低層アパートがひっそりと佇む、東京の東部にある労働者の街、押上に決めた。
 「私にとって、この界隈は欠かすことのできない場所だった」とヴェンダース監督は言う。「カメラを構えるためには、その場所を愛する必要があるんだよ」。

 監督がベルリンに戻った直後、高崎氏が加わり、わずか3週間で全編日本語の脚本を練り上げた。
ヴェンダース監督は、細部にまで静かな注意を払い、大切にしているカセットテープや地面に落ちた木の葉の影に喜びを見出すような人物像を作り上げた。監督は憧れの小津監督に倣い、小津の代表作のひとつとされる『東京物語』に登場する一家の名前にちなんで、平山という名をこのトイレ清掃員につけた。
 ヴェンダース監督は、必要なものだけに絞り込まれた日常を構想するにあたり、このキャラクターを「持たざることの美しき象徴」にしたいと考えた。
「削減することは現代文明の大きな課題のひとつだ」とヴェンダース監督は言う。「そして、私たち自身の無駄を無くしていく方法を学ばなければ、地球と気候をより良くすることはできない」

2022年の秋に撮影が始まる前、監督と役所氏は、主人公が自宅で大切にしている観葉植物の手入れをしたり、寝室の整然とした棚からフォークナーの翻訳作品を読んだりする様子を撮影するアパートを訪れた。ヴェンダース監督は役者に、美術監督から提供された小道具を合理化し、登場人物にとって最も重要なものだけを残すことを考えるように頼んだ。
 「私はこう自問自答するんです―本当にそんなものを持っているだろうか?と」 役所氏は昨年末、レンタルオフィスでの会見で当時をこう振り返った。 「そうやって現実的でないものを取り除いていくのです」
 役所氏は2日間、特注の道具の使い方を含め、トイレ掃除の技術を学んだ。彼は、ヴェンダース監督がドキュメンタリーを撮っているかのように演じたいと言った。監督は、これほど完全にそのキャラクターになりきった俳優と仕事をしたのは初めてだと語った。役所氏は昨年春のカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞している。

 ヴェンダースは、2022年の秋に記者が撮影現場を訪れたとき、坂茂が設計した公衆トイレのひとつで、紫、赤、黄色の半透明のパネルが貼られた長方形のガラス張りの建物で、利用者がトイレのドアの鍵を閉めると不透明になるもののシーンを撮影していた。
 青いジャンプスーツに身を包んだ役所は、腰に工具ベルトを巻き、青いゴム手袋と白いスニーカーを履いていた。彼は通訳を介してヴェンダース監督に短い打ち合わせした。グレー・ベージュのリネンのスリーピース・スーツに黒ぶちメガネ、黒の布製スニーカーという出で立ちの監督が「アクション!」と声をかけると、役所はバケツとゴミ袋2つ、トイレットペーパー1つを持って中央の個室に入り、エキストラは両脇の個室に入った。
 午後の光が弱まり、15日間の撮影スケジュールの緊張感が撮影現場に漂い始めた。撮影の合間には、役所がトイレのゴミ箱を掃除するために、スタッフがトイレのゴミ箱にゴミを詰めた。業を煮やしたヴェンダース監督が「あっちへ行け!」と叫ぶと、クルーは小走りで自転車の陰に隠れた。
 ヴェンダース監督は、この撮影はこれまでで最も短いものだったと語っており、その無駄のない撮影技術は映画の最小主義的なコンセプトを反映している。

 庄司かおりは日経アジアに寄稿し、この映画を「禅僧との問答のようで、相手には疑問ばかりが残るが、不思議な静けさが漂う」と評し、主人公の仕事への献身を「ほとんどの日本人が当たり前のこととして受け止めている。仕事の重要性は疑いもなく、生まれたときから私たちに叩き込まれているものだ」としている。
 だが、このキャラクターが非現実的なファンタジーだと感じるものもいる。低賃金で薄汚れた仕事に満足し、孤立した生活を送る男は、日本人の平穏さに価値を見出す「男性や西洋人の夢」だと、東京大学の林香織教授(メディア論)は言う。「これを素晴らしいと思うのは、すでにお金持ちで、詰め込みすぎの役員スケジュールから逃れたい人たちだ」と林教授は言う。

 役所氏は、唯足るを知る男という描写が理想主義的に見えることを認めている。
「多くの人間は、欲しいものを手に入れると、すぐに別のものが欲しくなり始める」と彼は言う。 「その考えからは決して逃れることはできない」
 しかし、たとえそのキャラクターが「理想的すぎて、現実には存在しない」ものであったとしても、「そうなろうと努力することには価値がある」と役所氏は言った。

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。