欧米の「MeTo運動」が、まだ定着していない日本の性的力関係

セクハラを主張した大学院生、相手教授の妻からの損害賠償支払うことに
地元プロが翻訳 ニューヨークタイムズ/アジア太平洋欄記事(2023年5月29日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説や記事から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載まで多少の時間経過あり)。地元の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
 日本の大手メディアがほとんど触れない、大学院生と美術史教授のアカデミックハラスメント訴訟。このセクハラ裁判をニューヨークタイムズが糾弾している。
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 美術史の著名な教授とその教え子は夕食を終えて、日本画のように美しい古都・京都の川沿いを散歩し、あるバーに立ち寄った。

 数ヶ月前から、二人は多くの時間を共に過ごし、すでに東京の公園で一度、キスをしている。そして今度は、酒を飲んだ後、彼女を自分のホテルに誘い、そこで(彼女が自分の意思に反したと主張する)性的関係を持った。これについて、教授は合意の上だったと主張している。

 以降、2人は10年にわたり秘密の関係を続け、密かに会い、情事を重ね、何度も海外旅行に出かけた。

 次第に彼女は、この関係は教授が二人の間の力関係を利用したものであり、自分が本当に合意したことはなかったと考えるようになった。

 そして、ついに関係を断ち切った彼女は、大学に正式に苦情を申し立て、教授をセクハラで訴えた。彼女の主張は、教授が23歳の時に指導教員の立場を利用して、彼女に性的関係を持ち掛け、強引に関係を結び、その後何年も彼女を根本的に自分の支配下に置いたというものであった。

 しかし、教授の妻からは、婚外恋愛を婚姻契約の侵害とみなす日本の民法に基づき、不貞行為と精神的苦痛を与えたとして彼女自身が訴えられることになった。

 結局、妻は250万円を勝ち取った。教授は昨年、"不適切な関係"を行ったとして解雇された。しかし、裁判所は、教授が彼女の意思に反して強要したことはないと判断し、彼女は敗訴した。

 現在38歳の佐野メイコさん、教授の林道朗氏(63歳)、妻のマチコさん(74歳)のこの物語では、女性がセクハラで裁判を起こす(ましてや勝訴する)ことはほとんどなく、欧米のように「MeToo運動」がまだ定着していない日本における性的な力関係のもつれが際立っている。

 佐野さんは、林氏に対するセクハラ訴訟が長丁場になることを承知していた。しかし、「グルーミング(手なずけ行為)やガスライティング(嫌がらせで女性を混乱させて支配する精神的虐待)のような、日本人に馴染みのない心理的虐待」を経験したことを示すために、訴訟に踏み切ったと、彼女はいくつかのインタビューで語っている。

 この事件は、日本のニュースメディアではあまり注目されなかったが、日本の美術界や学術界を揺るがした。日本ではアメリカとは異なり、教授と学生の関係を禁止している大学はほとんどない。同時に、年齢や地位による上下関係が文化的に浸透しているため、部下(特に女性)が上司にノーと言うのは難しい、と専門家は指摘する。

 「日本には、協調性を重んじる文化がある」と、性暴力被害者のための非営利団体「Spring」の代表理事である佐藤由紀子氏は言う。「だから、性的関係を求められても、断ることが難しいと思う場合がある」。

 佐野さんも法廷で、繰り返しそう主張した。しかし、日本の性的暴行に関する法律は同意に言及しておらず、暴力によらない性行為の強要には懐疑的である。

 「性暴力に関しては、大きな脅威があり、被害者が反撃しなければなりません」と、日本の性犯罪法の改正の可能性を検討する弁護士の川本瑞紀氏は言う。現在の法律では、"心理的に強制されてイエスと言わされた人"は保護されないと彼女は言う。

 一方、米国や欧州の一部の国では、病気や酩酊状態などで被害者が合意できない場合や、加害者が権威ある立場を利用する場合も考慮した法律が定められている。

 佐野さんは、林氏との最初の性的関係の後、「あざだらけになっていなかったので、自分が性的虐待の被害者だとは思っていなかった」と裁判の資料で述べている。

 3月の判決では、強制と合意の間のグレーゾーンを認め、林さんが解雇されたことを「妥当」と判断した。しかし、佐野さんは涙ながらに、「立場が上の人が、相手の精神を実際にどうできるかを考慮に入れていない」と述べた。

 佐野さんは敗訴したが、裁判所は、妻の訴訟で佐野さんに課された賠償の責任を負担するため、教授に128万円を支払うよう命じた。

 東京の大学でジェンダー法について講義している谷田川知恵氏は、夫婦間の契約でありながら、それを破った佐野さんに責任があるとされた妻の訴えは「少しおかしい」ように見えるだろうと述べた。しかし、専門家によれば、このようなケースは決して珍しいことではないという。

 妻(本記事のためのコメントは控えている)は、裁判資料の中で「不倫をした夫を恨んでいるが、セクハラをしたとは思っていない」と述べている。彼女は、佐野さんが「まるで自分が心から被害者であるかのように、2人の関係のすべての責任を夫に押し付けている」と非難した。

 佐野さんは上智大学の学部生だった2004年に教授と出会い、その美術史の授業に参加した。林氏は日本近代美術の専門家として知られ、フェミニズムや言論の自由について率直な意見を持っていた。

 二人の関係は、長い間、大学の教員と学生であった。二人は彼女の大学院進学の希望についても話し合った。林氏は推薦状を書いたり、インターンシップを手伝ったりした。

 2007年、彼女が大学院に入学する前の夏から秋にかけて、その一線は曖昧になり、林氏は彼女との恋愛関係を求め始めたと彼女は言う。定期的にお茶に誘われる。彼女は断れないと思った。

 「"読書のすすめ "とか "大学院の勉強会"とか、私に期待してくれているように感じました。」と佐野さんは言う。「それを裏切れない感じがしました。」

 上智大学のような日本の教育機関には、学生と教授の関係についてより明確な指針が必要であると、一部の論者は述べている。政府は近年、大学に対し、セクシャルハラスメントや暴力に関する相談窓口についてより多くの情報を提供し、懲戒処分が行われた場合にはその内容を開示するよう求めている。

 大阪大学の牟田和恵教授(社会学・ジェンダー学)は、「権力者を喜ばせたい」という思いから、「指導教員や教授と学生との関係は、定義上ハラスメントになる」と指摘する。

 林氏(本記事のためのコメントは控えている)は、証言の中で、自分が結婚しており、佐野さんの上司であったことから、その関係が「不適切」であったことを認めた。しかし、彼は佐野さんがそれを承諾し、さらには自ら望んでいたと述べた。

 その証拠として、佐野さんが大学院に入学する前の夏、他の学生たちと一緒に中部地方の博物館巡りをした際に送ったお礼のカードがある。そのカードには、「Dearest Professor H」と英語で書かれ、日本ではあまり使われない「xox」(ハグとキスを送ります)と書かれていた。

 「学生から教授へのメッセージで、"Dearest"と呼ぶのは、普通では考えられない親しさがある」と林氏は証言している。

 佐野さんは、この手紙は単に "感謝とお礼"を伝えるためのものだと言っている。

 裁判記録によると、林氏は佐野さんと一緒に過ごすうちに「距離が縮まった」と語ったという。佐野さんは、幼少期を英国で過ごし、日本では疎外感を感じていることを林氏に打ち明けたが、林氏は、自分が海外での経験から理解できると答えた。

 秋、大学院に入学した佐野さんは、林氏の指導を受けながら、東京の公園を散歩した。そして、キスをされた。

 「断って面目をつぶすことは論外だった」と彼女は言う。

 裁判の資料や証言の中で、林氏(当時48歳)は、佐野さん(当時23歳)と交際していると信じていたと述べている。

 佐野さんは、同年秋、彼が美術シンポジウムで講師を務める京都への旅に同行した。彼がホテルの彼の部屋に一緒に泊まろうと言ったとき、彼女は何度も断り、自分の部屋に戻ると言ったと証言している。彼は自分の部屋に来ることは合意の上だったという。

 両者とも、林氏が佐野さんに口による性行為をしたことを証言したが、佐野さんはそれを嫌がったと言った。佐野さんは、何度も「待って」と言って、抵抗の意思表示をしたという。「でも、彼は "大丈夫、大丈夫 "と言い続けました」と佐野さんは語った。

 その後10年間、2人は東京のいわゆるラブホテルで定期的に会い、学術的な議論と性的関係を重ねた。林氏は、このホテルの一室で、佐野さんの卒論に目を通したという。

 佐野さんは、林氏の指導を受けている間も、卒業後も、林氏に親愛の情を送り、フランス、イタリア、スペインへの旅行に同行していた。林氏は、このような行動から、この関係が合意に基づいていたことが改めて証明されたと述べているが、本人は秘密にしたかったと認めている。

 彼女の行動は洗脳の証であり、将来のキャリアに関わる権限を持つ指導者に「失礼」なことをするのが怖かったのだという。

 彼女が関係を絶とうとすると、林氏は彼女を「妄想癖がある」と非難したり、「もう誰とも付き合えない」と言ったりしたと、彼女は裁判所に提出した書類の中で述べている。彼女は、林氏がこう言ったという。「セクハラで訴えたければ、私を訴えればいい。でも、あなたはそういう子じゃないから、訴えないでしょう」

 林氏は裁判の中で、そのような発言や佐野さんへの強要はなく、2人は単に「自由恋愛を楽しむ大人」であったと述べている。

 「私はあまりにも甘かったと理解していますし、今でもそんな自分が嫌いです。」と佐野さんは言います。「"嫌です"と言って逃げればよかったと思うことが何度もありました。」

 2018年の春には、佐野さんは東京のアートギャラリーで働き、きっぱりと関係を断ち切った。彼女はそのことを家族や親しい友人達に少しずつ話し始め、激しい羞恥心と闘った。彼女は自傷行為をするようになり、自殺を考えたという。

 佐野さんの長兄である佐野周作さんは、妹から「洗脳された」と聞いたという。「"傷ついている"ということは、確実に分かった。」と彼は言った。

 東京の美術館で佐野さんと共同制作した学芸員補の熊倉晴子さんは、佐野さんから美術界で尊敬されていた林さんの話を聞いて、「がっかりした」という。

 翌年早々、佐野さんは林氏の妻に連絡を取った。佐野さんは、林妻に「このままではいけない、申し訳ないと思った」という。佐野さんはまた、林氏が自分を操っていたと感じていることを林氏の妻に知ってもらいたかったのである。

 裁判資料によると、林氏は妻に関係を告白し、妻は佐野さんを訴えたという。

 裁判記録の一部である電子メールでは、林夫人は弁護士を通じて佐野さんに対し、最初から「夫から強要された関係であれば、簡単に大学に苦情を出すことができたはず」と書いている。

 セクシャルハラスメントの専門家は、この文化を変えるには法的措置以上のものが必要だと言う。

 大阪大学の牟田氏は、大学の方針として教授と学生の恋愛関係を禁止することを提唱している。「女性がキスを受け入れたり、デートに行ったりすれば、それは合意の上だというのが一般的な見方です」と言う。「私たちは風潮を変えようと奮闘していますが、まだ効果を上げているとは言えません。」

 佐野さんは現在、心的外傷後ストレス障害の治療のため、セラピーを受けているという。彼女は両親と暮らしており、2019年に画廊を辞めてからフルタイムで働くことはできていない。

 彼女の今の主な目標の1つは、"ノーと言える力"を回復することだという。

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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。伊勢崎第二中、足利学園(現白鳳大学足利高校)、新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowers」における空間と時間 人文地理学的解説」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。