妻の重度障害で介護離職 自ら介護事業を起業
家族・患者支える重度障害者グループホーム開設(2024年1月30日)
車椅子で闘病中だった妻の敦子さんと板橋さん

妻の重度障害で介護離職 自ら介護事業を起業
家族・患者支える重度障害者グループホーム開設(2024年1月30日)

 難病のALS(筋委縮側索硬化症)に罹った妻を在宅介護するため、離職後に起業した未経験の介護事業。訪問介護・看護に続いて昨年6月、医療ケア対応型の重度障害者グループホーム「ライフコミュニティーAILE/エイル」(伊勢崎市北千木町)を開設したのは、会社員だった板橋亨さん(伊勢崎市三光町 61歳)だ。「妻のために自分にできることは、これしかなかった」と当時を振り返る。

エイルの建物
伊勢崎市北千木町に開設した重度障碍者グループホーム「ライフコミュニティーAILE」

 妻の敦子さん(60歳)は昨年2月、施設の完成を見ることなく亡くなっている。ALSと診断されたのは2016年9月。その1年前から右腕が上げにくくなり、転ぶことが多くなるなど不調を訴えていた。車椅子生活が始まったが、長時間の在宅介護サービス事業所が見つからないため、夜間はたんの吸引など板橋さんが睡眠時間を削って介助にあたっていた。

 板橋さんは約13年間、建設業を営んでいた。40歳前に事業の先行きに不安を覚え、資格や経験を買われて大手不動産会社に転職する。妻の発症時は管理職を務めており、定時退社など望めない多忙な業務に追われていた。在宅介護は日中の付き添いの他、夜間介助など家族の負担は大きい。会社には介護を申告して1年間ほど頑張る中、転勤などの打診を受けて退職を決意。この間、妻の在宅介護に関わりながら出来る仕事を模索していた。

 「家族に迷惑をかけたくない」と妻の敦子さんは当初、延命治療を拒否したが、大学生だった2人の息子との説得に最後は折れてくれた。とはいえ、重度の障害者が望むサービスを受けられる施設はほとんどなく「生計を維持し、妻に生き続けてもらうためには自ら介護事業をやるしかなかった」と、未知の業界への参入の心境を語る。妻の介護で得た、業界知識と当事者目線だけが頼りだった。

介護タクシー
3台が稼働している介護タクシー

 18年11月、自宅(伊勢崎市三光町)を事務所に株式会社スマイルークを設立した。翌年2月にはブランド名「ケアサポ24」(同所)で訪問介護事業をスタート。続いて同年6月には、自らも運転手としてハンドルを握り、介護タクシー(同市連取町)を始めている。訪問看護(前同)は同年12月、21年3月には相談支援事業所と体制を整えていった。

 昨年6月に開設したのが、医療ケア対応型で障害区分5〜6の重度障害者向け施設AILE(エイル)だ。24時間、看護師や喀痰吸引(1〜3号)資格者などが常駐。2階建てで21床のうち、現在はショートステイも含めて10床が入居している。県内の他、埼玉や都内からの問い合わせも多いという。板橋さんは同様の介護施設は今後も必要とみており「満床になったら2棟目、3棟目と必要な地域に開設していきたい」と意気込みを語る。ALS協会群馬県支部長を務め「同じような境遇の患者や家族の支えに」と闘病の傍ら、講演活動も行った妻の思いを引き継いでいく。(2024年1月30日)

伊勢崎市の中心市街地の結婚式場で解体始まる
施設所有の山万が跡地にテナント誘致を交渉中(2024年1月16日)
解体工事が進む結婚式場。隣接して3方向で進む道路拡幅・新設工事

伊勢崎市の中心市街地の結婚式場で解体始まる
施設所有の山万が跡地にテナント誘致を交渉中(2024年1月16日)

 伊勢崎市の中心市街地の一角で、ヨーロッパの居城を思わせる白い尖塔が目を引く結婚式場の解体が始まった。「ティアラガーデンズ伊勢崎」(伊勢崎市大手町11−20)を所有している不動産開発の山万(東京都中央区)は、跡地活用としてテナント企業との交渉を進めている。伊勢崎駅周辺第一土地区画整理地区内の解体跡地は、東南2方向で道路拡幅、西側に道路が新設されるなど土地環境が一新される。

 「ティアラガーデンズ伊勢崎」の営業時は、プール付きガーデン併設の2つの邸宅でもてなす演出と、青いバージンロードやチャペル「メアリーズ大聖堂」が人気を集めていた。2018年から山万のグループ会社で施設管理や関連事業を手掛けるワイエム総合サービス(千葉県佐倉市)が運営していた。コロナ禍で業績が低迷し、回復が思わしくなかったことから昨年9月末で営業終了後、山万で跡地活用を模索していた。

 解体跡地は伊勢崎駅周辺第一土地区画整理地区内にあり、南側は都市計画道路の事業化で道路幅員は16m(車道10m、歩道3m×2)、東側の伊勢崎停車場線は12m(車道7m、歩道2・5m)にそれぞれ拡幅工事中。これら工事でアイオー信用金庫大手町支店前を東西に走る変則的な”カギザギ”交差点は、東西に真っ直ぐ抜けることになる。一方、西側は6m道路が新設されるなど、3方向を道路に囲まれた商業地としての利用度が高まる。

 解体結婚式場の規模は2階建て延べ約2600平方mで、その跡地の敷地は約3800平方m。解体工事は3月末に終了する。同社では跡地活用として既に「テナント企業と交渉中」(山万ビル事業部)で、交渉がまとまり次第、テナント施設の建設準備に入る。山万は1971年から千葉県佐倉市のユーカリが丘駅北口で、鉄道事業を含めた250ヘクタールの複合開発などを手掛ける総合不動産開発企業。

 営業していた田原屋撤退後に更地となっていた2006年、分譲マンション建設計画が持ち上がっていた解体跡地。その後の2009年に結婚式場が開業している。当初は「クイーンヒルズ迎賓館フォレストキャッスル」の名称で営業していた。2016年から結婚式場の「風と緑のウエディング」(東京都八王子)が運営を担ったが、2018年会社更生手続きを申し立てられ、ワイエム総合サービスが運営を引き継いでいた。

炎上する日航機、しかし機内の秩序は守られていた
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年1月2日付)
炎上後に灰燼と化した日航機の胴体(1月11日午後10時台のNHKニュースより)

炎上する日航機、しかし機内の秩序は守られていた
ニューヨークタイムズ アジア太平洋欄記事(2024年1月2日付)

1月2日に発生した羽田空港の日航機と海上保安庁航空機衝突で、ニューヨークタイムスが乗員乗客たちの冷静な対応をいち早く世界に伝えた。

【モトコ・リッチ東京支局長/上乃久子記者】
 火曜日、東京に着陸した日本航空516便の機内には煙が充満し、機内の混乱と喧噪の中に子供の声が響いた。「お願いです、早く降ろしてください!」客室乗務員が指示を叫び始め、乗客は恐怖に襲われていたが、子供は丁寧な日本語を使って訴えた。

 その後数分、炎が窓の外にちらつく中(これは最終的に日航機を飲み込むことになる)でも、秩序は保たれていた。乗務員たちは、最も安全と思われる3つの出口ドアから367人の乗客全員を避難させ、緊急用スライドから一人ずつ降ろし、乗客に大きな怪我はなかった。ほとんどの乗客は、携帯電話(この悲惨な光景を世界に伝えるため)などわずかな持ち物以外すべての荷物を置いてきた。

 羽田空港で多くの人が奇跡と呼んだこの生還にはさまざまな要因があった。訓練された12人の乗務員、12,000時間の飛行経験を持つベテランパイロット、先進的な航空機の設計と素材、しかし、緊急処置の間、機内のパニックが比較的なかったことが、おそらく大きかっただろう。「悲鳴は聞こえましたが、ほとんどの人は冷静で、席を立たずに座って待っていました」と、ガーディアン紙のビデオインタビューに応じた乗客のイワマ アルトさんは語った。「だからスムーズに脱出できたのだと思います」

 その評価にはストックホルムから来た17歳の乗客、アントン・デイベさんも同意し、「キャビンクルーはとてもプロフェッショナルだったが、彼らの目に恐怖が浮かんでいるのが見て取れました」と語った。それでも彼はこう付け加えた。「誰も我先にと走ることはありませんでした。皆が指示を待っていたのです」。滑走路で海上保安庁の航空機と衝突した日航機火災の翌日、西日本の地震救援に向かう海上保安庁の隊員5人が死亡した事故の原因について、手がかりが明らかになり始めた。

 管制塔と日航機、海上保安庁の機体との交信記録を見ると、日航機には着陸許可が下り、海上保安庁の機体には滑走路横の「ホールディング・ポイントまでタキシング(移動)する」よう指示されていたようだ。海上保安庁の航空機がなぜ滑走路に落ちたのか、その原因究明が進められている。運輸安全委員会の藤原琢也調査官は記者団に対し、同委員会は海上保安庁の航空機からボイスレコーダー、いわゆるブラックボックスを回収したが、日航機のレコーダーはまだ捜索中であると述べた。

 日航機が着陸する際のビデオ映像では、滑走路に突っ込む際に炎が立ち上っているように見え、無傷で脱出できた人がいたとは思えないような状況である。日本航空の広報担当者である沼畑康夫氏は水曜日の記者会見で、午後5時47分に飛行機が着陸してから、6時5分に最後の一人が飛行機を降りるまでの18分間、機体はエンジンから吹き出す炎に耐えていたと語った。この18分間には、飛行機が停止して避難用スライドが展開するまでの、滑走路を約3分の2マイル滑走する時間も含まれていたという。

 緊急着陸の際、90秒以内に客室から避難するよう乗務員は訓練され、旅客機もテストされているが、2年前のエアバスA350-900の技術仕様では、乗客が脱出するのにもう少し時間がかかる可能性が高いとはいう。オーストラリアのシドニーにあるニューサウスウェールズ大学で航空宇宙設計の上級講師を務めるソーニャ・A・ブラウン博士は、エンジン周りの防火壁、燃料タンク内の窒素ポンプ、座席や床の耐火素材などが、燃え盛る炎を抑える役割を果たした可能性が高いと述べた。

 「ある程度の耐火性があれば、初期段階での進行は遅くなります」とブラウン博士は電話インタビューで語った。「もし延焼を抑えるものがあれば、全員を安全に避難させることができる可能性が高まります」。エアバス社のスポークスマン、ショーン・リーは電子メールの中で、A350-900には4つの非常口と機体の両側から出られるスライドが装備されていると述べた。また、通路の両側には床照明があり、「機体の大部分は複合材料で構成されており、アルミニウムと同レベルの耐火性を備えている」と述べた。アルミニウムは一般的に高い防火性能を持つと考えられている。

 飛行機の構造もさることながら、乗務員による明確な指示と乗客のコンプライアンスが、安全な避難に役立っただろう、とブラウン博士は言う。「本当に、今回の日本航空の乗務員は非常によくやってくれました」とブラウン博士は語った。乗客が手荷物を取るために立ち止まったり、出口のスピードを落としたりしなかったことは、「本当に重要なことです」と彼女は付け加えた。

 北海道北部から飛行機で帰国していた東京郊外の会社役員、イマイ ヤスヒトさん(63)は通信社時事通信に対し、飛行機から持ち出したのはスマートフォンだけだったと語った。「ほとんどの人がジャケットを脱いでいたので、寒さに震えていました」と彼は語った。泣き叫ぶ子供たちや大声を出す人がいたにもかかわらず、「ほとんどパニックになることなく避難することができました」

 日本航空の堤正之氏は、緊急時の乗務員の行動において最も重要となるのは、「パニックコントロール」と「どの出口を使えば安全かの判断」だと述べた。元客室乗務員が、緊急事態に備えるために乗務員が受ける厳しい訓練やトレーニングについて説明している。元客室乗務員で、乗務員志望者を指導するヨーコ・チャンさんは、インスタグラムのメッセージに「避難手順の訓練では、煙や火災のシミュレーションを繰り返し行い、現実にそのような状況が発生したときに精神的な準備ができるようにしました」と書いている。

 JALに勤務していなかったチャンさんは、航空会社は客室乗務員に6ヶ月ごとに避難試験に合格することを義務付けていると付け加えた。日本航空の沼畑氏によると、この避難で15人が負傷したが、重傷者はいなかったという。東京の航空アナリスト、杉浦一機氏は、今回の結果は注目に値すると述べた。

 「通常の緊急事態では、かなり多くの人が負傷します」と50年以上航空事故を研究してきた杉浦氏はインタビューで語った。 「緊急用スライドは風で動き、乗客が次々と出口から転落するため、地面に体を打ち付け怪我をする人も少なくありません」。管制塔と航空機の1機との間の連絡ミスが衝突を引き起こした可能性があるかどうかについて、杉浦氏は「何が起こったのかを推測するのは難しい」と述べた。 同氏は、海上保安庁のパイロットが航空管制の指示を「誤解した可能性がある」と付け加えた。

 明らかなことは、「離陸準備中の航空機と別の航空機が同時に同じ滑走路に着陸するべきではなかった」ということだ、とブラウン博士は述べた。彼女は、海上保安庁のプロペラ機は旅客機よりもはるかに小さかったことから、2機が衝突した際、海上保安庁の航空機(ボンバルディア・カナダDHC-8-315)の乗組員は「実際の衝撃自体で」死亡した可能性が高いと述べた。元日本航空パイロットの杉江弘氏は、2機の飛行機が同じ滑走路に入る滑走路侵入があまりにも頻繁に起きていると語った。「ヒューマンエラーは大きな空港でも起こりうる」と彼は言う。

 1991年にロサンゼルスで起きたボーイング機と小型ターボプロップ機の衝突事故以降、パイロットは管制塔からの指示をすべて口頭で繰り返すことが義務づけられている、と杉江氏は語った。日本航空のスポークスマンである沼畑氏は、516便の機長は口頭で着陸許可を確認し、管制塔に繰り返したと述べた。海上保安庁の乗組員も「ホールディング・ポイント」への移動指示を確認した。

【翻訳】星大吾(ほしだいご)・伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。専門は契約書・学術論文。伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

有数のレトロゲームコレクター「ヘンリー浜川」の正体は?
「伊勢崎まちなか文化祭」は愛好会のオフ会にも(2023年12月9日)
大和さんの自宅のコレクション部屋の一室。書棚のゲームソフト類を説明している

有数のレトロゲームコレクター「ヘンリー浜川」の正体は?
「伊勢崎まちなか文化祭」は愛好会のオフ会にも(2023年12月9日)

 国内外の愛好者で関心が高まっているレトロゲームで、有数のコレクターとして知られる大和祥晃さん(60歳 伊勢崎市三光町)。社長を務めるセレモニーホールのヤマトホール(同市三光町)で開いた「第3回 伊勢崎まちなか文化祭」の最終イベント(11月23日)では、ネット公開上のハンドルネーム「ヘンリー浜川」のコレクションとして体験会を実施。結成5年目の設立時から顧問を務め、会員が2000人に迫る「レトロコンシューマー愛好会」(プラウドロー会長/ハンドルネーム)の仲間も県内外から駆け付けていた。

体験会
超レアソフトのビデオカセッティーロックを保有する愛好会会員が実演(左)、ゲームファンの親子連れも楽しむ体験会

 体験会ではコレクション写真を添えて作成した、日本の主なテレビゲーム機年表を掲示。1977年のテレビテニスに始まり、2020年のプレイステーション5までを大まかに紹介した。会場では1972年に北米で発売された世界初の家庭用ゲーム機「マグナボックス・オデッセイ」が最初に目に入る。カーレース画面で遊ぶ、ビデオカセッティーロックは「超レア」のソフトを会員が持参し、体験を可能にした。近所に住む親子で訪れたゲームファンの父親(41歳)は、「名前は知っていても、見たことも触ったこともない」ゲーム機に驚き、感心していた。

 大和さんが収集したコレクション紹介は当初、自作のホームページだった。入れ替わるように5年前、自分だけのコレクションをネット上で公開できる「MUUSEO(ミューゼオ)」に、「ヘンリー浜川」のハンドルネームで開設した。テレビゲーム機を中心とした各種ゲーム機類はコレクション700点のうち600点をカテゴリー別、年代別に紹介している。別館として各種カタログ、ミニカー、ガンダム・仮面ライダー・おニャン子クラブなどアイドル系のレコードやCD類、・宇宙戦艦ヤマト関連と、多彩なグッズコレクションも掲載。地元食品メーカーの「ペヤング焼きそば」関連を含めて、収蔵総点数は1993点と、あとわずかで2000点の大台に達する。コレクションの3割は未使用で、未開封も含まれているという。

ゲームセンター
ゲームセンターでも見かけるが、実は家庭用。左2台は輸入し、椅子も別途購入

 20代からファミコンをはじめとする家庭用テレビゲーム機などを集め始めていたという大和さん。収集が本格化したのは30代後半に自宅を改装した2000年以降。棚も特注した保管部屋確保で拍車がかかり、現在はリビングルームも含めて5部屋を膨大なコレクションが占領している。ゲーム機器の他、書棚や積み重ね置きコミック類が、各部屋の一角を占めている。収集は当初、出張先の玩具店などにも足を運んだが、今はもっぱらネットオークション。海外も含めた関心の高まりで価格が高騰し、なかなか手が出せないという。今後はコレクションで「ゲーム文化を次の世代に伝えていければ」と控えめに語る。

 レトロコンシューマー愛好会の設立は2017年。会長のプラウドローさんがツイッターで情報交換のコミュニティ―を作ろうと立ち上げた。設立時にミクシーで存在を知っていて尊敬する大和さんにも声をかけ、以来顧問として活動を支えてもらっているという。会員は芸能人や漫画家、ゲーム開発者など多岐にわたり、最近は外国人や女性の入会者も増えている。2000人到達まで残り約50人(11月23日時点)を切っており、年内にも大台達成が見込まれる。伊勢崎まちなか文化祭に訪れていたプラウドロー会長は、「情報共有やオフ会を通じた交流で世界的にも注目されている日本のゲーム文化を発信していきたい」と意気込みを語っていた。(2023年12月9日)

海底火山によって日本に新しい島が誕生中―過程を目撃できる貴重な機会
ニューヨークタイムス アジア太平洋欄記事(2023年11月7日付)
10月30日の硫黄島沖噴火による新島形成図(東京大学地震研究所ホームページより)

海底火山によって日本に新しい島が誕生中―過程を目撃できる貴重な機会
ニューヨークタイムス アジア太平洋欄記事(2023年11月7日付)

 現在も続く火山の噴火によって、硫黄島から1〜2キロも離れていない海上に小さな陸地が生まれた。これは火山にどのような働きがあるかについて学ぶ、またとない事例研究となる。
(ヒサオ ウエノ,マイクアイヴス)

 3週間前、硫黄島からの眺めは見渡す限り大海原であった。今、すぐ沖合に小さな新しい島があり、成長するにつれて煙を吹き上げている。これは火山島がどのように誕生するのかを目撃する貴重な機会となっている。

 この新しい島は、10月21日に噴火を開始した無名の海底火山の産物であり、第二次世界大戦中に米軍と日本軍が激戦を繰り広げた日本の島、硫黄島から1〜2キロも離れていない。

 東京から離れること数百キロ、太平洋に浮かぶ硫黄島では、噴火が始まって以来、負傷者や被害は報告されていない。この噴火では、珍しい地質学的現象をリアルタイムで見ることができる。

 昨年も同じ場所で同様の噴火が起きているが、今回は噴火地点が水面より上にある、と気象庁の臼井雄二・火山活動主任分析官は言う。

 アメリカ合衆国地質調査所によれば、世界中には潜在的活火山である陸上火山が約1,350あるという。科学者たちは、これまでにさらに数千の「海底」活火山を発見しており、より多くの活火山、あるいは陸上の活火山1つに対して数百ものの活火山が、波の下に潜んでいる可能性があると考えている。

 地質学的な歴史の点からいえば、ハワイ諸島を含む主要な島々は海底火山の噴火によって形成された。しかし、ほとんどの場合、これらの噴火を我々は実際に目撃することはできない。

 「ハワイを形成した噴火は、すべて我々の時代より前のものです」ニュージーランドのオタゴ大学の地質学教授で、海底火山の噴火を研究しているジェームズ・ホワイト氏は言う。「たとえポリネシアのカヌーに乗ってその上で待っていたとしても、海底火山の噴火が水面まで上がってこない限り、噴火を見ることはできなかったでしょう」

 気象庁の臼井氏によれば、硫黄島沖の現在の噴火は数週間前から激しさを増し、先週の金曜日と土曜日にピークを迎えた。東京大学地震研究所の報告によると、10月30日現在、新しい島の直径は約100メートル(328フィート)である。

 日本の同じ地域にある西之島火山の近くでも、2013年に同じような形で小さな島が形成された。その噴火は10年間続いたが、硫黄島付近の噴火は通常1カ月しか続かないと、地震研究所の中田節也名誉教授は言う。

 「噴火がいつ収まるかは不明です。噴火が続くとすれば、島はより高く、より大きくなる可能性があります「」

 ホワイト教授によれば、今回の噴火は、海中約500メートルを貫いてそびえ、山頂が硫黄島として海上に出ているとしている、より大きな「親」火山の側面から始まったようだという。

 ホワイト教授によれば、噴火は持続的な噴火柱を作るのではなく、大きな灰色の粒子が砲弾のような弾道弧を描きながら小さな粒子を吸い込む、指のような噴流で個別の爆発を起こしているという。噴火には赤熱したマグマも含まれており、その混合物が噴火の複雑さを物語っている、と教授は加えた。

 「火山学者でさえ、噴火がどのように起こっているのかを正確に言うのは難しいのです」と教授は言う。

 多くのアメリカ人が硫黄島を知っているのは、この島は連島の一部であり、1945年初頭、第二次世界大戦の死闘の舞台となったからである。

 ピューリッツァー賞を受賞した写真には米国海兵隊によると、米国人6人が写っているという。1945 年 2 月、島の上で星条旗を掲げた海兵隊員の姿は、アメリカ国民にとってこの戦争の忘れがたいイメージとなった。

 西之島火山から約130キロ、硫黄島から北に約2倍離れた父島に住む高橋由佳さんは、西之島噴火の硫黄や煙の臭いを時々感じたことがあったという。

 高橋さん(31歳)が6月に父島から出航した一泊クルーズで硫黄島を見たとき、海に囲まれており、噴火の兆候は見えず、匂いもしなかった。彼女が見たのは、自衛隊が運営する施設と、浜辺に浮かぶわずかな廃船だけだった。

 「新しい島が永久にそこにできるのか、それともまた海の下に沈んでしまうのか、非常に興味があります」彼女は現在の噴火についてこう語った。

 【翻訳】星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

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