ムーミンたちの平和な暮らし〜作者トーベ・ヤンソンの生活〜
地元翻訳家 星大吾翻訳 NYT芸術蘭記事/ニーナ・シーガル(2023 年10月4日付)
ムーミンの原作者トーベ・ヤンソン(ムーミンについてのブログより)

ムーミンたちの平和な暮らし〜作者トーベ・ヤンソンの生活〜
地元翻訳家 星大吾翻訳 NYT芸術蘭記事/ニーナ・シーガル(2023 年10月4日付)

 VILLAGE/VANGUARDが全国で開催している期限限定ショップ「ムーミン谷の不思議な住民たち」が2月、スマーク伊勢崎でも開かれ賑わった。今も絶大な人気を誇る、そんなムーミンの作者トーベ・ヤンソンの生涯と生活を知る記事を紹介します。
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 スカンジナビアの作家・芸術家トーベ・ヤンソンが、最初の「ムーミン」の物語の草稿を書いていたのは、ヨーロッパが第二次世界大戦の危機に瀕していた頃であった。

 半ばで書きかけとなったその草稿は戦後まで忘れ去られていたが、1945年に『小さなトロールと大きな洪水』として出版され、後にフィンランド文学の古典となる9冊のムーミンシリーズの最初の作品となった。

 1954年にヤンソンがロンドンの新聞『イブニング・ニュース』で可愛いリトル・ミイ、天真爛漫なスノークのおじょうさん、思慮深いスナフキンといったムーミンのキャラクターを漫画にすると、彼らは世界的に有名になった。1990年代には、日本とオランダの共同制作によるムーミンのテレビアニメ番組と長編映画が制作され、新たなファンを増やした。

 今日、ムーミンはおそらくフィンランドで最も愛されている文化的輸出品であり、スウェーデン語で書かれたヤンソンの本は50カ国語以上に翻訳されている。

 しかし、フィンランドとスウェーデンの同性愛者のアーティスト、熱心な平和主義者、パートナーと年の半分を島で暮らしていたという作者自身についてはあまり知られていない。

 パリのエスパス・モン・ルイで9月29日に始まった展覧会「トーベ・ヤンソンの家」は、彼女の全作品と、その根底にあるユートピア思想により関心を集めることを目的としている。

 ムーミンのイラストや漫画に加え、ヤンソンの絵画やスケッチ、衣装やセットのデザインも展示されており、その多くは平和、寛容、調和への願いをユーモラスに表現している。

 また、ヤンソンの青春時代や、生涯のパートナーであったトゥーリッキ・ピエティラなどの家族関係、芸術を創作した場所などについても紹介している。

 パリのアート集団「コミュニティ」のメンバーであるトゥッカ・ローリラは、「彼女の作品に新たな視点をもたらし、現代的な視点で彼女の作品を探求する」ために、ヤンソンの遺族の協力のもと展覧会を企画した。

 ヤンソンの生涯の伝記的要素を理解すれば、「ムーミンの登場人物の多くが、彼女の周囲の人々や彼女の人生にインスピレーションを受けたものであることがわかります。どのキャラクターが誰を表しているのかを知れば、トーベの人生を読み解くことができるのです」

 シングーミーとボブ、秘密の言葉を話すドレスを着た二人の切っても切れない小さな生き物は、例えばトーベと彼女の初恋の人、ヴィヴィカ・バンドラーがモデルである。楽観的で問題解決型のトゥー・ティッキーは、ヤンソンの長年のパートナーであるピエティラに直接インスピレーションを受けた、とローリラは言う。フィンランドでは1970年代までこのような同性愛は犯罪とされていたが、ムーミンの世界ではそのような関係も見られる。

 本の中では、自然の中で暮らし、珍しい生き物と友情を育み、困難から学び、互いに助け合う方法を見つけることにも焦点が当てられている。

 ヤンソンの伝記を書いたストックホルム大学のボエル・ウェスティン教授(児童文学)は、ヤンソンは平和主義についての自分の考えを表現するために作品を書いたと述べている。

 「戦時中、彼女は日記に幸せな社会、もうひとつの世界を築きたいと書いていた。ムーミンの世界は、その夢のある種の実現、あるいは疑似体験として見ることができる」

 ヤンソン(2001年没)は、1914年にフィンランドのヘルシンキで生まれた。スウェーデン人の母、イラストレーター、シグネ・ハンマーシュテン・ヤンソンと、フィンランド系スウェーデン人の父、彫刻家ヴィクトール・ヤンソンは、美術を学んでいるときにパリで出会った。

 トーベはペンが握れるようになるとすぐに絵を描き始め、ストックホルムとパリで美術を学んだ。15歳のとき、スウェーデン語の政治風刺雑誌『Garm』に初めてイラストを描き、当時台頭していたファシストや共産主義運動を公然と批判した。

 彼女は1953年までこの雑誌で働き、ヒトラーやスターリンの風刺画など約100点の表紙イラストを描いた。この展覧会のもう一人の共同企画者であるシニ・リンネ=カントは、「これは間違いなく危険なことでした」と言う。第二次世界大戦中、フィンランドはドイツ帝国と同盟を結んでいたからだ。

 1944年以降、ヤンソンは1年の半分をヘルシンキのアトリエで過ごし、春が来ると、残りの半年を生涯のパートナーであるピエティラとフィンランド群島のクロフハルン島と呼ばれる小さな島で暮らした。島には一軒しか家がなく(彼女たちの家だ)、電気も水道もなく彼女たちはすべての物資をボートで運んだ。

 「彼女たちの島の小さな家には一部屋しかありませんでした。」トーベの姪で、この島を訪れて育ったソフィア・ヤンソンは言う。「家の隣にはテントもあり、彼女たちは風の音や海の音を聞くのが好きだったので、よくそこで寝ていました」

 島に住む理由はもうひとつあった。それは、フィンランドでは同性愛者であることを理由に逮捕されたり、法的処罰を受けたりする可能性があったが、クロフハルン島では堂々と一緒に暮らすことができたからだ。年をとり、ヤンソンが海を怖がるようになるまで、彼女らは30年間そこで過ごした。

 しかし、完全に孤立していたわけではなかったとソフィアは言う。夫妻は定期的に家族や友人を迎えていた。ムーミンたちが血縁者も見知らぬ人ももてなすのと同じように。

 「お客さんが来ると、お客さんは家で寝て、トーベとトゥーリッキはテントで寝ました」とソフィアは言う。「ムーミンの世界では、ドアはいつも開いているのです」

 この安全な家を作るという考えは、ヤンソンの作品の中心的なものだったとウェスティン教授は言う。ヤンソンは著作の中で、「家は安心できる場所であり、楽しく過ごせる場所である」と言っている。「しかし同時に、家は時に災害に脅かされる、だから、私たちは家を守るために戦わなければならない」

 ムーミンの登場人物たちの状況は、ヤンソンの現実を反映している、とソフィアは言う。ムーミントロールとムーミンママが、いなくなったムーミンパパを探しに行く最初の本からそうだった。

 「彼女の知り合いはみんな誰かを亡くしていました。これは決して大げさに言っているのではありません」とソフィアは言う。「多くの男性が戦線で亡くなり、多くの父親が行方不明になっていました。誰もが転々とし、難民という問題を多くの者が考えていました」

 リンネ=カントは、ヤンソンの作品のテーマの多く、特に自然災害、気候のもたらす災害、難民の苦境は、現代の読者の共感を得ていると語った。

 「ヤンソンは、私たちが今経験していることを描いているのです。彼女がこういった作品を書いていたのは80年前なのですから驚くほかありません」
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

酒宴・座敷舞の「からりこ節」伝承に「まちだ連」結成
いせさき祭りの民謡流しやまちなか文化祭で往事を再現(2023年9月20日)
23日のいせさき祭り民謡流しの酒宴舞「からりこ節」に向けて練習中の「まちだ連」有志

酒宴・座敷舞の「からりこ節」伝承に「まちだ連」結成
いせさき祭りの民謡流しやまちなか文化祭で往事再現(2023年9月20日)

 静岡県民謡「ちゃっきり節」(作詞北原白秋)で知られる、伊勢崎出身の作曲家・邦楽研究者の町田佳聲(本名・嘉章 1888−1981)。同時期に伊勢崎銘仙の機織り作業を軽やかなリズムに乗せて踊る伊勢崎民謡「からりこ節」も作曲している。昭和初期に酒宴席で踊ったお座敷・地唄舞は、いせさき祭りの民謡流しで大衆的な踊りとして毎年披露されているが、今年はこれまでほとんど目にすることがなかった、往事のおもてなし文化も再現。さらに10月28日、伊勢崎まちなか文化祭(10月28日〜11月12日)でも披露される。

 披露するのは民謡・舞踏・ダンスなどの8団体で6月に発足した「まちだ連」(会員約50人 梶山時子会長=殖蓮民謡会会長)の有志。民謡流しの「からりこ節」は行進しながらの踊りだが、当時は酒宴座敷で埃をたてないように、畳半畳の空間でも舞える振り付けだった。これまで披露する場が少なかったため、「本来の振り付けを後世に伝え、踊り継ぎ、郷土の偉人とこの伊勢崎民謡を多くの市民に知ってもらいたい」(梶山会長)と「まちだ連」を結成し練習を重ねてきた。

「♪わたしや伊勢崎 機場(はたば)の育ち チャッカリン チャッカリン♪」の囃子詞から「ちゃっかりん節」と称されたこともある。9月23日開催のいせさき祭りの民謡流しでは、本町通りを会場に午後5時から40分間、約150人が浴衣姿の4列横隊で踊る。3曲目のからりこ節で、黒留袖姿の最後尾十数人が本町通り中央付近で立ち止まり、座敷舞を披露する。大衆舞との対比も見どころのひとつ。10月28日の伊勢崎まちなか文化祭では、伊勢崎駅前南口広場で午前11時と午後1時から各45分間実演する。「まちだ連」では『伊勢崎おもてなし舞からりこ節』など、酒宴座敷舞に替わる呼称も検討している。

 織物買い付け業者をもてなす余興にと最盛期の1928年(昭和3年)、当時の伊勢崎甲種料理店組合が作詞を北原白秋、作曲を町田佳聲、振り付けを花柳徳次に依頼、完成させた。いわば伊勢崎の料亭文化を伝える伝統芸能になっている。翌年2月13日、伊勢崎の芸者衆による実演がNHKで全国生放送された。1976年の伊勢崎民謡民舞発表会、第16回国民文化祭・ぐんま2001、NHKの民謡公開音楽番組「それ行け!民謡うた祭り」、2017年の町田佳聲130周年事業などで披露されてきた。

 町田佳聲は三光町の醤油醸造業の町田家に生まれた。本町の伊勢崎郵便局南の交差点角に残る、むくり屋根の住宅が生家。東京美術学校図案化を卒業後、芸能記者、NHKの邦楽番組担当者を経て、長期の全国調査で「日本民謡集成」「日本民謡大観」全9巻を刊行している。2017年に生誕130周年事業が実行委員会方式で行われ、その有志が今年、「町田佳聲顕彰会」の発足準備を進めている。9月30日には東本町のつくし会館で第3回準備会を開く予定。「まちだ連」もこうした機運の中で結成された。

中国で拡散される情報により福島原発処理水放出への怒りが助長される
地元プロが翻訳 NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月30日付)
福島第一原発/11日に処理水放出を伝えるテレビ映像(日本テレビnews every)を撮影

中国で拡散される情報により福島原発処理水放出への怒りが助長される
地元プロが翻訳 NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月30日付)
 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
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 中国南岸の広東省では、ある女性が箱詰めされた日本ブランドのエアコンの写真を投稿し、抗議のために返却する予定だと述べた。中国南西部では、日本式居酒屋のオーナーが、アニメのポスターを破り、瓶を叩き割る動画を投稿し、中華ビストロとして営業を再開するつもりだと述べた。

 このようなソーシャルメディアへの投稿の多くには、「放射能汚染水」という言葉が使われている。これは、中国政府と国営メディアが、日本が廃炉とした福島第一原子力発電所の放射能処理水を海に放出したことを指して使っている言葉だ。

 先週、日本が100万トンを超える処理水の第一回目の排水を開始したが、それ以前から中国は排水の安全性に関する誤情報を広める組織的なキャンペーンを展開し、何百万人もの中国人の怒りと不安を煽っていた。

 原子力発電所が大地震と津波で破壊されてから12年、処理水の放出は、中国をアジアのライバル国との外交における騒乱を煽るという古典的なやり方に逆行させた。2012年には、日中両国が自国領と主張する島に日本の活動家が上陸したことで、中国のデモ隊(警察が同行していたと見られる)が寿司レストランを襲撃する事件が起きている。

 しかし今回、中国にはより広い意図があるのかもしれない。世界秩序が大きく変化し、中国とアメリカが世界を「自分の味方かそうでないか」という枠組みで分割する傾向が強まっている中、中国は日本の信頼性に疑念を植え付け、同盟国を不正行為の共謀者として印象付けようとしていると専門家は指摘する。

 カーネギー国際平和財団の核政策プログラム・シニアフェローであるトン・チャオ氏は、「米国、欧州連合(EU)、オーストラリアが日本の放水を支持している中、中国は、日本とその国際的パートナーが『地政学的な利害に振り回され、支配された結果、基本的な倫理基準や国際規範を曲げ、科学を無視している』というシナリオを作りたいのだ」と語る。

 チャオ氏はさらに「私が懸念しているのは、このような認識と情報の乖離が広がることで、中国が既存の国際的な政治や制度、秩序に明確に異議を唱えることが正当化されるのではないかということだ」と続けた。

 国際原子力機関(IAEA)のタスクフォースに招聘された中国の専門家を含む科学者たちは、日本の放水が人体や環境に与える影響は極めて小さいと述べている。

 しかし、日本の処理水放出計画をめぐって、中国政府とその関連メディアは数カ月にわたって非難を続け、先週、中国外務省は日本の「放射能汚染水」放出を非難し、日本の水産物の輸入を停止した。

 福島原発から240km以上離れた東京都の役所には、中国の国際番号から何千もの電話がかかってきており、「バカヤロー!」「なんで汚染水を流すんだ!」などカタコトの日本語で嫌がらせのメッセージを浴びせられている。

 政府や企業の誤情報対策を支援するテクノロジー系企業のLogically社によると、中国の国営メディアや政府関係者、親中派のインフルエンサーによる福島原発に関するソーシャルメディアへの投稿は、今年に入ってから15倍に増えたという。

 これらの投稿は、必ずしも明白な虚偽の情報を流布しているわけではないが、日本が放射性物質をほぼすべて除去してから排水を行っているという事実など重要な情報が抜け落ちている。また、中国の原子力発電所が、福島原発の排水よりもはるかに高レベルの放射性物質を含む排水を放流していることには触れていない。

 国営の中国中央テレビ局と中国グローバルテレビ局は、フェイスブックやインスタグラムで、英語、ドイツ語、クメール語など複数の国や言語で、放水を非難する有料広告を掲載している。

 このような世界的な働きかけは、中国が新たな冷戦ともいえる状況で、より多くの国々を味方に引き入れようとしていることを示唆している。Logically社の中国専門家であるハムシニ・ハリハラン氏は、「重要なのは、日本からの海産物が安全かどうかではない」と語る。「これは、現在の世界秩序に欠陥があると主張する中国の活動の一環である」

 中国の情報源では、日本政府と福島原発を運営する東京電力が、強力なろ過システムでどれだけの水が処理されたかを報告しなかった初期の失敗が指摘されている。

 電力会社のウェブサイトによると、敷地内の貯蔵タンクにある約130万トンの水のうち、30%のみが完全に処理され、トリチウム(水素の同位体であり、専門家は人体へのリスクは低いとしている)だけが残留という。東電は、完全に処理されるまではいかなる水も放出しないと発表している。

 日本の複数の政府機関と東電が行った検査では、先週から放出された水に含まれるトリチウムの量はごく微量で、世界保健機関(WHO)が定めた基準値をはるかに下回っていた。中国や韓国の原子力発電所から放出されている水には、より多くのトリチウムが含まれている。

 国際原子力機関(IAEA)や多くの国の専門家を含む監視ネットワークにより、「日本政府に対する国際的な圧力は非常に高い」と、福島原発事故の環境的・社会的影響を研究しているカリフォルニア大学バークレー校のカイ・ベッター教授(原子力工学)は言う。

 岸田文雄首相の官房長官である松野博一氏は月曜日、日本は「中国から発表された事実と異なる内容を含む情報に対して、何度も反論してきた」と述べた。

 日本の外務省では、ソーシャルメディア・プラットフォーム「X」(旧ツイッター)上で「#LetTheScienceTalk」というハッシュタグを使用している。日本にとっての課題のひとつは、一般市民にとって科学が理解しづらく、このような出来事に対して人々がしばしば感情的に反応することである。

 「よく知らないものに対して、人々が心配したり恐れたりするのは理解できる」 東京の青山学院大学教授で、原子核物理学の社会学と歴史を研究している岸田一隆氏は言う。「自分の目で見たわけでも、確認したわけでもないのに、専門家の説明を信じるしかないのだから」

 科学的な理解の欠如は、特に厳しく管理されている中国の情報チャンネルにおいては、誤情報につながりやすい。Logically社のリサーチ責任者カイル・ウォルター氏は、「何十年にもわたって住民が食の安全に対する不安に直面してきた中国では、当局はその脆弱性を利用して大衆を操り、恐怖心を煽ることができる」と語った。

 それでも、日本は常に自助努力を怠ってきたという批判もある。それらの意見では、東電が計画された排水の30年間で放射性物質の大部分を除去するという誓約を守れるかどうか疑問視されている。また、日本が排水を放出する決定を発表する前に、周辺国と協議すべきだったと言う。

 「中国がリスクを誇張しているのは、日本がその機会を与えたからである」と、震災以来福島の放射線レベルを追跡している環境モニタリング団体『セーフキャスト』の主任研究員、アズビー・ブラウン氏は言う。早くから「国際的な協議が欠けていた」ため、「中国と韓国が正当な疑問を呈することを予期できたはずだ」と彼は言う。

 中国では、政府のプロパガンダに対する反発も散見される。科学ブロガーのリウ・スー氏は、日本の植民地時代の虐待に関連する「ナショナリストのシナリオ」について書き、その中で日本は「永遠に真の許しを否定され、日本に対する批判はすべて合理的で公正なものとみなされる」とした。彼は、あるユーザーから "不適切な言論 "として上海当局に通報された後、ソーシャルメディアからこの投稿を削除した。

 韓国政府関係者は、ソーシャルメディア上で出回っている荒唐無稽な主張のいくつかを否定しようとしている。

 先週、福島原発の近くで変色した水が写っている写真が韓国で広く拡散されたが、政府高官のパク・クヨン氏はこれをフェイクニュースだとし、その写真は放電が始まる8分前に撮影されたものだと指摘した。
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

色あせることのない日本の夏の風物詩 古関裕而「栄冠は君に輝く」
地元プロが翻訳  NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月4日付)
生涯で5千に及ぶ曲を作曲したとされる古関裕而の像(出身地の福島駅前)

色あせることのない日本の夏の風物詩 古関裕而「栄冠は君に輝く」
地元プロが翻訳  NYTアジア太平洋欄記事(2023年8月4日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
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 75年前、高校野球のために作られた古関裕而の「栄冠は君に輝く」は、思い出を呼び覚まし、新たな感動を与えている。 ブラッド・レフトン

 トロント・ブルージェイズの先発投手として活躍する菊池雄星は、実はカラオケ名人でもあり、十八番はかつて所属していた西武ライオンズの応援歌だ。先発登板の合間のオフの日に、彼は「栄冠は君に輝く」の歌詞を知っているかどうか尋ねられたが、どうやらこれは愚問だったようだ。

 ミネソタのビジター側ダッグアウトにユニフォーム姿で立った彼は、満面の笑みを浮かべ、日本語で歌った。

 春にとっての桜がそうであるように、「栄冠は君に輝く」は日本の夏の風物詩である。1948年に古関裕而はこの曲を全国高校野球選手権大会のために作曲した。そして今度の日曜日、過去75年間と同じように、49都道府県の優勝校の選手たちが西宮の甲子園球場に入場し、膝を高く上げ古関の歌に合わせて行進する。

 「夏の風物詩です」と菊池は言った。「そう、まさに、夏の野球の代表曲。幸運にも甲子園球場で全国大会に進出できた球児のためだけでなく、全国大会進出を目指す県予選の間中も流れ、最高のプレーをするための闘志を高めています」

 菊池は2年生と3年生の時に甲子園球場で行進した。ミネソタ・ツインズの先発投手、前田健太は2年生で行進している。

 「頭に残る曲です」と前田は言う。「この曲を聞くと、日本人なら誰もが夏の甲子園を思い浮かべると思います。僕にとっては、高校時代を思い出すし、あの夏の大会に出場したことを思い出します」

 小関は1909年、東京から300km北にある小さな町、福島に生まれた。1930年、アメリカのコロムビア・レコードのライセンシーであった日本コロムビアに作曲家として入社。スポーツにはほとんど興味がなかったにもかかわらず、マーチングの要素に惹かれてチームの応援歌を手掛けた。

 おそらく彼は、自分が日本で最も人気のあるスポーツイベントに関わる仕事をすることになるとは思いもしなかっただろう。

 1915年に全国中学校優勝野球大会として創設されたこの大会は、第二次世界大戦中の4年間、中断されていたが、1946年に再開された。連合国軍の占領下、日本は多くの社会的、経済的改革を行ったが、その中でも教育制度の見直しが行われ、高等学校と呼ばれる3年制のカリキュラムが新設された。

 毎年夏の甲子園で開催されていた野球の祭典は、1948年の第30回大会から「全国高等学校野球選手権大会」に正式名称が変更された。この変更を記念して、主催者はテーマソングの全国公募を行った。そして当時38歳だった小関の曲が選ばれた。

 小関は自伝の中で、終戦からインスピレーションを得たと書いている。大会の継続は平和の継続を意味する。打球の心地よい音と若者の高揚感は、日常となっていた空襲警報のサイレンの鳴り響く緊張感に取って代わる。

 彼は高揚感のある、前向きな曲を求めていた。そのプロセスをこう説明した。

 「インスピレーションを得るために、私は誰もいない甲子園に行き、マウンドの上に立った。熾烈な戦いの中に身を置くとはどんな感じだろうと想像しているうちに、曲のメロディーが自然と頭に浮かんできた。あのマウンドに立つことが、それをつかむための唯一の方法だった」

 小関の甲子園球場への影響力は、この大会だけにとどまらない。彼は、同球場のホームチームである阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も作曲している。

 小関は、1936年にプロリーグが結成された際にこの曲の作曲を依頼された。原題は「大阪タイガースの歌」。この行進曲は、日本プロ野球で最も長く続いている球団応援歌として愛され、黒と金のピンストライプのユニフォームと同じくらいタイガースの代名詞となっている。

 この曲は、ハリー・ケリー(米の野球実況アナウンサー)が歌った「私を野球に連れてって」のようにファンによる熱狂的な人気を得ている。ケリーが亡くなって25年経った今でも、リグレー・フィールドのファンは7回表に有名人が「私を野球に連れてって」を歌うのを待ち望んでいる。

 数多のミュージシャンや有名人が「六甲おろし」をレコーディングしているが、おそらく最も有名なのは阪神のある選手のものだろう。元メッツの内野手、トム・オマリーは阪神に4年間在籍し、毎シーズン3割を超える打率を残した。

 彼は1994年に「六甲おろし」を日本語と英語でレコーディングした。ケリーに倣い、愛すべき音痴っぷりを大衆に曝したのだ。オリジナル盤は10万枚以上を売り上げ、オマリーの日本での活躍が終わってから18年後の2014年にリマスターされたデジタル版がリリースされた。

 小関は先月、プロ・アマ両野球界への音楽的貢献が認められ、死後であるが、日本野球殿堂入りを果たした。その20年前、彼は日本のホームラン王でライバルの読売ジャイアンツでプレーした王貞治から、驚きの賛辞を受けた。2003年の日本シリーズ前、当時福岡ダイエーホークスの監督だった王は、対戦相手として再び聴かされることになるこの曲について尋ねられた。

 「六甲おろしはリズムもいいし、好感の持てる曲です」と王監督は記者団に語った。「対戦相手の応援歌でありながら、実はみんなに勇気を与えてくれる。小関さんが作曲した応援歌は、スポーツをするすべての人を元気にしてくれる」。
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。新潟大学農学部卒業、白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国語児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowersにおける空間と時間 人文主義地理学的解読」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

法制化の中、アイヌ民族のアイデンティティを取り戻す戦い
地元プロが翻訳 NYT アジア太平洋欄記事(2023年7月2日付)
アイヌのアイデンティティのひとつだった北海道のサケの川漁

法制化の中、アイヌ民族のアイデンティティを取り戻す戦い
地元プロが翻訳 NYT アジア太平洋欄記事(2023年7月2日付)

 米国の高級紙、ニューヨークタイムズ。その社説から、日本人にとって関心が深いと思われるテーマ、米国からみた緊張高まる国際情勢の捉え方など、わかりやすい翻訳でお届けしています(電子版掲載から本サイト掲載までの時間経過あり)。伊勢崎市在住の翻訳家、星大吾さんの協力を得ました。
 アイヌ先住民族を代表する団体が、100年以上前に失われたアイヌ民族が北海道の川でサケを自由に漁獲する権利を取り戻すため起こした訴訟。様々な関係者の思いはー。
モトコ リッチ、ヒカリ ヒダ
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 ある日の午後、差間正樹氏は霧の中から日本最北の地、北海道・十勝川の灰色の水面を見つめた。彼のルーツであるアイヌ民族は、かつてここから銛や網を使って神からの贈り物とされるサケを獲っていた。

 日本の法律では、アイヌの料理や交易、精神文化に欠かせないサケの川漁は、100年以上前から禁止されている。72歳の差間氏は、今こそアイヌの人々にとっての当然の権利を取り戻し、衰退したアイヌのアイデンティティの最後の名残のひとつを取り戻す時だと語った。

 「かつての我々の文化では、サケはコミュニティーの中で誰もが楽しめるものでした。サケは我々のためにあり、我々はこの魚を獲る権利を取り戻ししたいのです。」

 国会でアイヌを先住民族と認める法律が可決されてから4年が経ち、差間氏はサケ漁の権利を取り戻すために国と県を提訴する団体を率いている。

 日本の同化政策によって、何世紀にもわたり、アイヌは土地を奪われ、狩猟や漁業をやめ、農業やその他の単純労働に従事させられ、自分たちの言語を使うことのできない日本語学校に押し込められた。

 明治時代(1868〜1912)、政府が川での漁を全面的に禁止したのは、太平洋に産卵に向かうサケの資源を保護するためだった。

 アイヌの歴史と漁業権について著書がある札幌学院大学の山田伸一教授(人間科学)は、「この動きは、海からサケを獲る日本の漁師に有利になるよう、アイヌを生業としての漁業から遠ざけようとする政府の政策と一致していた」と語る。

 アイヌの擁護者たちは、日本の法律は、伝統的な所有権や慣習によって主張される土地や資源を利用する権利を規定する「先住民族の権利に関する国連宣言」を遵守していないと言う。日本は2007年、この宣言(但し強制力はない)に同意した。

 「日本は法の支配に従うというが、先住民族の権利という点では非常に遅れている」と、北海道東部にある私立博物館の館長であり、日本の国会議員を務めた唯一のアイヌ人の子孫である萱野志朗氏は言う。「アイヌの人々は、伝統的なアイヌのライフスタイルに戻るという選択肢を持つべきだ。」

 アイヌの人数は著しく減少しており、2017年に実施された最後の公式調査では、総人口約520万人の北海道でアイヌと確認されたのは13,118人だけだった。ユネスコはアイヌ語を 「危機的消滅危機言語 」に指定している。

 日本政府は今年、アイヌを先住民族として認定した2019年の法律に基づき、アイヌの文化活動、観光、産業を支援するために約56億円を支出する予定だ。この新法は、10年前の旧決議に基づくものである。

 2020年、政府は県庁所在地である札幌市の南、白老にアイヌ民族博物館を開館し、舞踊、木彫り、弓矢、刺繍などのアイヌの伝統を紹介している。メインの展示室にある歴史年表は、日本の侵略者がアイヌを「抑圧」し、人口の一部を絶滅させる病気をもたらし、日本の習慣を強制し、「しばしば耕作不可能な」農地をアイヌに与えたことを認めている。

 新法も国立アイヌ民族博物館・公園(ウポポイ)の存在も、日本を単一民族の国だと主張する日本の政治家たちに何世紀も無視されてきたアイヌに力を与えるには足りないと言う批判もある。

 政府はアイヌの工芸品、音楽、舞踊を重視しているが、アイヌの権利の専門家であり、著名なアイヌ指導者の姪でもある鵜沢加奈子氏は「私たちは政治的権利を持つべきです。」と言う。

 北海道の先住民族の存在を教科書やカリキュラムでほとんど認めていない教育制度の中で、アイヌの一部の人々は、切り離された博物館以上のものを望んでいるという。

 アイヌ民族博物館の副館長である村木美幸氏(63歳)は、子どもの頃、家族がアイヌ民族であることを家庭で話したことはなく、クラスメートは自分や他のアイヌの子どもたちを犬に例えたという。

 「社会全体では、私たちが学ぶのは日本文化だけです。それは私たちの数が少ないからだと言います。でもそれは、私たちが自由に生きられなかったせいでもあるのです。」と彼女は言う。

 差間氏にとって、それはアイヌがいつでも川からサケを獲れるようになって初めて可能になることなのだ。

 県知事は毎年、儀式のために限られた数のサケを捕ることをアイヌに認めている。差間氏によれば、仮にラポロ・アイヌ・ネイションが勝訴したとしても、毎年定期的に許可されている100匹や200匹以上のサケを捕獲することはないという。

 「魚の数ではなく、私たちの権利の問題なのです」と、地元で漁網を製造する会社を共同経営し、海の商業漁業免許を持つ差間氏は語った。

 この裁判は早ければ今秋にも法廷で審理される可能性がある。日本政府は裁判所に提出した資料の中で、川漁の禁止は北海道のすべての住民を対象としており、アイヌは年に一度の儀式を除いて特別な権利を与えられていないと述べている。

 北海道庁アイヌ政策課の遠藤通昭広報官は、係争中の訴訟を理由にコメントを避けた。内閣官房のアイヌ政策推進会議と国の水産庁もコメントを避けている。

 北海道のアイヌ・コミュニティ内でも、アイヌ文化を守るための最善の方法をめぐっては意見が分かれている。

 北海道アイヌ協会の貝澤和明事務局長は、土地や森林へのアクセス権とともに漁業権についても政府関係者に働きかけたいと述べた。

 ウポポイ博物館でアイヌ文化に携わる人々は、法廷闘争よりも自分たちの文化的ルーツを探求していると語った。

 午後、伝統的な木製のカヌーを実演している博物館職員の牟田達明氏(34)は、「訴訟はとても重要ですが、同時に私たちは現代の日本人です。法律に従うべきではないでしょうか?」と語った。

 ラポロ・アイヌ・ネイションのメンバー12人のうち数人は(ほとんど全員が差間氏の下で働いている)、訴訟の過程で自分たちのルーツを発見した。

 子供の頃、長根弘喜氏(38)はアイヌはすでに絶滅したと思っていた。まさか自分がアイヌであるとは思ってもみなかった。

 ある日の午後、長根氏は地元の公民館のテーブルで、他の数人のメンバーとともに、藍色の布に黄色い糸を針で刺す作業に没頭していた。教師の廣川和子(64)は、長い間ロープを編んだり大きな網を張ったりして硬くなった太い指にもかかわらず、伝統的な刺繍が上手だと彼をからかった。

 差間氏にとって、訴訟を起こしアイヌの伝統を守ることは、遺産を残すことでもある。他の多くのアイヌの人たちと同じように、彼は子供の頃、自分が先住民族の一員であることをなんとなく感じてはいたが、はっきりと自覚したことはなかった。

 しかし40代の頃、アイヌの血を引いていることを嘲笑され、バーで乱闘騒ぎを起こした。その時、彼は自分の人生を文化と政治活動に捧げることを決意した。

 「刺繍や木彫りに誰も興味を示さないときでも、一人で頑張りました」と涙を流しながら語った。「民族差別はどこに行ってもなくならない。どこにも隠れることはできないのです。」
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 星大吾(ほしだいご):1974年生まれ、伊勢崎市中央町在住。伊勢崎第二中、足利学園(現白鳳大学足利高校)、新潟大学農学部卒業。白鳳大学法科大学院終了。2019年、翻訳家として開業。専門は契約書・学術論文。2022年、伊勢崎市の外国籍児童のための日本語教室「子ども日本語教室未来塾」代表。同年、英米児童文学研究者として論文「The Borrowers」における空間と時間 人文地理学的解説」(英語圏児童文学研究第67号)発表。問い合わせは:h044195@gmail.comへ。

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