「酉三と伊勢崎」テーマに研究者が講演
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年の4 2019/12/29
【写真】右:「森村酉三と伊勢崎」をテーマに講演する手島さん。左:華蔵寺公園内の酉三作「板垣源次郎像」は台座だけが残る

「酉三と伊勢崎」テーマに研究者が講演
鋳金工芸家「森村酉三」没後70年その4 2019/12/29

 伊勢崎市(旧宮郷村大字連取)出身で鋳金工芸家の森村酉三・寿々夫妻研究者の手島仁さんが12月21日、伊勢崎市立図書館2階ホールで「森村酉三と伊勢崎」をテーマに講演した。地元名門の森村家に生まれ、東京美術学校(現東京藝術大学)在学中から帝展連続入選など、若くして才能を開花させた酉三(1897−1949)。郷里のさまざまな名士の支援とともに、その芸術活動をさらに高めたのが才色兼備の寿々(1903−2001)との結婚だったと、酉三の充実した芸術家生活を紹介した。

 とはいえ、年長の作家が戦後も活動を続けて評価を高めてきたのに対し、酉三は戦後の円熟・完成期を迎えることなく52歳で病死。一方、酉三と死別後、後年は女性鋳金家として白寿を全うした寿々は、52歳で芸術家仲間の洋画家、田中佐一郎と再婚(田中も再婚でこの時55歳)している。手島さんは亡くなる2年前に寿々と面談し、森村夫妻の貴重なエピソードも紹介した。

 酉三は前橋中学(前橋高校)から沼田中学(沼田高校)を経て東京美術学校へ。1972年に新設された帝展の工芸部門に入選すると、以後当選を重ねた。酉三の将来を高く評価し、支援したのが伊勢崎の織物原料糸商の佐藤藤三郎だった。鋳金家としての初仕事が、同商店の新築洋風店舗の噴水装置の置物と外壁2階窓上のブロンズ製草花置物。彫刻家としての初仕事も地元だった。大正期の教育者の板垣源次郎胸像は、胸像部分は戦時下に供出され、台座のみが華蔵寺公園に残っている。

              自由恋愛の代償は森村家の勘当

 寿々は佐波郡伊勢崎町(伊勢崎市三光町)の料亭「藤本」の一人娘。伊勢崎実科高等女学校時代は同級生の兄で、後に作曲家となる町田歌聲に憧れていた、と手島さんは明かす。卒業後に酉三と出会い、酉三27歳、寿々21歳の時に結婚。寿々は大間々町(みどり市)の貴船神社の初デートを初々しく語ったという。一方、自由恋愛の代償で森村家から勘当され、東京・池袋での新婚生活は困窮を極めた。この2年間の苦労が「森村を大人にし、2人を強く結びつけた」と寿々は回想している。

 この時も励まし続けてくれたのも佐藤藤三郎。寿々の親族を中心に行った伊勢崎の「白水楼」の祝宴には仲人を務め、後の後援会の組織づくりにも尽力した。佐藤は森村家とも親しかったことから同家を根気よく説得。帝展などの入選も重なったことで勘当が解かれ、森村家の支援で池袋の丸山町に住居とアトリエ、鋳金工場を新築。酉三の本格的な創作活動が始まった。

            
 手島さんは以後の2人の生活を「高踏的」と表現する。酉三の余暇は、夏の北アルプス登山、冬の妙高高原へのスキー、秋は手塩に掛けた菊の鑑賞と多趣味。登山もスキーも用具は舶来の一流品を使ったという。寿々は周囲から「モガ(モダンガール)」と呼ばれ、合宿中の陸上競技選手の人見絹枝と出会い、親しくなったエピソードも紹介。昭和モダニズムの先端を生きた作家夫婦像も明かした。

       << 1 2 3 4 ピープル >>