舛田幸三が戦時下に背負った薬箱を前に語る,公益財団法人脳血管研究所の美原樹理事長。右が軍医だった初代博理事長(「50年史美原」から)

プロ棋士だった舛田幸三がポナペ島で衛生兵として担いだ薬箱
伊勢崎まちなか文化祭で企画展示 美原診療所(2022年10月28日)

 大山康晴名人と共に一時代を築いたプロ棋士の升田幸三(1918―1991)が、西太平洋ミクロネシア群島のポナぺ島(現ポンペイ島)で戦時中、衛生兵として担いでいた薬箱が、公益財団法人脳血管研究所 美原診療所(美原樹理事長 74歳 伊勢崎市大手町1−1)の待合室の一角に展示されている。「伊勢崎まちなか文化祭」(10月15日〜11月3日)の企画展示のひとつで、期間中の診療時間内であれば見学できる。

 薬箱は縦35センチ、横46・5センチ、高さ28・5センチの大きさで、簡易な手作り。表面はジャングル移動の際にも敵に見つかりにくいような迷彩を施した緑色。赤い赤十字マークで医療箱とわかる。美原樹理事長が自宅の蔵に収納されていたものを引っ越しの際に発見し、軍医として戦地に赴いた父、博初代理事長(1913−1981)の思い出にと「断捨離せず」に残していた。中にあったモルヒネなどの医薬品は既に廃棄処分している。

 博理事長が1942年(昭和17年)に軍医として赴任したポナペ島。終戦前年に一時的に米軍の襲来を受けたが、その後は米軍がサイパン島への集中攻撃に転じて玉砕を免れ、終戦を迎えた。最初の2年間はのどかな日々の島暮らしで、時には部下と碁を打ち将棋を指した。この中に衛生兵として従軍し、既にプロ棋士となっていた舛田幸三がいた。プロ相手当然の「飛車角落ちでも勝てなかった」と言う父の話を、樹理事長は少し愉快そうに語った。

 舛田幸三は帰還にあたり、伊勢崎の美原家まで博理事長の戦友として、薬箱を背負い同行している。同期会として「ポナペ会」が、毎年美原家で開かれ、樹理事長は父の膝に座り「楽しかった」という、戦友同士ののどかな島暮らしの日々の思い出話を聞いている。博理事長は1940年(昭和15年)に慶応義塾大学医学部を卒業した5月、海軍軍医中尉として志願し、サイパン島に赴く。その後通信長も兼務し、航海中に真珠湾攻撃の暗号文「ニイタカヤマノボレ1208」「トラトラトラ(ワレ奇襲に成功セリ)」を解読している。

 薬箱を展示している美原診療所は、医師で教育者、町会議員だった設楽天僕(1841−1883)が診療を始めた地。樹理事長が5代目となる。今年で2回目を迎える「伊勢崎まちなか文化祭」は、中心市街地の活性化を目的に、まちの歴史や産業、文化(史跡)を紹介するイベント。地域内の各店舗ではレトロで珍しい品々を展示し、市内各所で多彩なイベントを開いている。(2022年10月28日)